カントリー・ダイアリー 58号 2020年11月23日
朝日が差し込み、ぱらぱらと雨音に、見上げると虹。シンギング・ストーンの大岩から我が家にかけて、大きく虹が掛け渡っている。コロナがなければ今日は、秋の収穫祭--。餅つき、出店、人々のざわめき、会話……、歌に踊り……。幻の収穫祭。秋のつきぬける空があり、まぶしく射す陽がある。
カントリー・ダイアリー 57号 2020年9月24日
秋の陽の幻想
宇宙は一つの冗談である。
その存在に特別の意味があるわけではなく、たまたまそうなのであって、
この地球人類もまた、たまたまかく在るだけなのだ。
(--それはとほうもない奇跡で、かぎりなき謎であるけれども。)
それだけのことの中で、それだけの不可知の中で、迷妄しているだけである。
宇宙そのものが迷妄なのだ。
迷妄をたのしみ、迷妄を迷妄と知って、迷妄にとらわれることなく、迷妄することだ。
はたと〈見る〉ことがある。
主客なき〈見る〉。誰もいはしない。
〈見る〉だけがある。
宇宙のことごとがその内に、つつみこまれ、〈人(わたし)〉もつつみこまれて、〈見る〉だけがある。
宇宙は主体も、客体もなく、無境界であり、ただただ無境界である。
宇宙の全的な感知が〈見る〉であり、そこにおいて〈人(わたし)〉は宇宙であって、〈見る〉感知が在るだけである。
もう〈人(わたし)〉はいない。
--しずかな狂気、たわむれ。
--秋の陽の幻想。
--かぎりなくかがやいて在る。
カントリー・ダイアリー 56号 2020年8月16日
COVID-19
8月15日 終戦(敗戦)記念日。月遅れのお盆(旧暦月歴のお盆は9月2日)。
吾亦紅の咲いて
秋のある。
コロナ(COVID-19)で--。
世界を止めることだ。
世界を止めて
世界を超えて世界を観る。
その時とすることだ--
その時である。
ヒロシマで
ナガサキで--
そして地球環境の汚染で
3.11(2011年)で--。
そして新型コロナウイルスで--。
一人ひとりのかかえもつ死のそこで--。
人という類の死のそこで--
地球というものの命の死のそこで--。
世界を止める--
世界を超えて観る--。
まぶしい秋の陽ざしがある
釣舟草(ツリフネソウ)が咲いてある。
世界を止めて
わたしの「死の哲学」を編み
花粉の中心--
生の創造のただ中へと。
その空(くう)のまぶしさの中で
まぶしさの中へと--。
カントリー・ダイアリー 55号 2020年6月21日
わたしの「死の哲学」を編む 序
白寿を前にして病に倒れたわたしの母の、その介護と死をめぐって書きはじめられたノート(『街から』に連載)がここにある。
わたしたちは「死をかかえもった生」であるにもかかわらず、死をめぐる物語を失ってしまい、途方に暮れている。どのように死を迎えたらいいのか、歩むべき道が見えない。
橋田壽賀子は『安楽死で死なせて下さい』といい、西部邁は自死を選びとった。生は、死すべきいのちをどう見るかにかかっている。
向かい合わざるを得ない死の、不安と恐怖の中で、わたしたちは今、一人ひとりが、自分にとっての、わたしの「死の哲学」を編むことを問われている。
わたしたちは久しく神や仏、あるいは永遠の命といった物語の中で魂を救いとられてきた。だが神は死んだといわれる今、わたしたちはどこにそれを見出すことができるのだろうか。神は死に、今や人類そのものの死さえそこにある。核であり、環境汚染であり、ウイルスでありする。新型コロナウイルス(COVID-19)、それは人間中心主義の世界観を見直す好機であり、すべての人々に突きつけられた生死を前にして、生とは何かをもう一度その根底から考えることを要請している。
三歳の時に戦火の中で死を突きつけられたわたしは、死への恐怖から、死後の世界を希求し、魂の永続性をまさぐり、神を今ここに生きるインドへ旅し、魂の輪廻転生を説く『チベットの死者の書』に出会い、東西の叡智の森に分け入りして、生老病死する生の救済の在り処を訊ねつづけてきた。
そして今わたしは、このノートの旅のたどってきたところ??この(生滅する一回性の、刻一刻の)生(わたし)において、永遠(神話、あるいは一、光明)を生きているということによって〈わたし〉は永遠(刻一刻の非時間)なのであるという認知から、生老病死の実存に立ち返りながら、無を無と覚知することによってこそ、人は虚無から解き放たれるのでは、というところに立っている。
生を享けたからには、この生を見極めてみたいと願わないではいられないことだろう。
そこから、わたしたち一人ひとりにとっての、わたしの「死の哲学」--存在するとはどういうことか--は編み出されてくる。
カントリー・ダイアリー 54号 2020年5月5日
5月2日 気温はぐんぐん上がって、夏日を越え29℃。
朝日新聞の土曜版に「生老病死」を連載してきた、東日本大震災の直後対談したことのある、山折哲雄さん。肺炎が重症化してきて、今回の病から生還できたとしても、残された時間は少ないであろうと、連載を今回で終えると。「いくたびもいのち削りき春の森」「この道を行きつ戻りつ白い道」「童子連れ米寿を過ぎて長い旅」3句作り終え、ほっとして、いままで思ったことがないほど豊かな気持ちになった、と。
林友子さんから電話があり、10数年前脳溢血に倒れ、その後も車椅子ながら、画廊活動も行ってきていた、この白州にある浅川画廊の、浅川純至さんが昨日 旅立っていったと。
「繊細な人類のあけぼのと、芸術の開花とが一致していたことは疑いを容れない。……あのあけぼのの光をふたたびここに創出しなければならないのではないだろうか」浅川純至(『太古の祖先の洞窟に想う』より)。その手作りされた荒々しい土壁の画廊は浅川さんの作品そのものだった。が、その画廊も取り壊されるという。わかこも何度か個展やグループ展でお世話になり、親しくしていただいた。このコロナ騒動で葬儀もままならないという。
5月3日 憲法記念日。憲法学者の蟻川恒正さん、憲法の解釈変更で憲法そのものを無視して変更してゆく安倍政権は、脱法厭わぬ権力であり、今や法秩序はほとんど破壊していると。(蟻川恒正著『憲法解釈権力』などがある)
5月4日 コロナで静かなゴールデンウイーク。やっと霜も降りなくなったので、茄子やキャベツの定植をする。
舞踏家大野一雄さんの『花鳥風月』を観る。2010年に逝去し、子息の慶人さんも今年の一月に亡くなったと。1986年わかこの個展に来て頂いてから、二度目の個展では舞いを見せて頂き、その後セゾン劇場から横浜赤レンガ館、白州夏フェスティバルと我が家への訪問、長野の長谷寺、そして横浜緑区の自宅兼舞踏研究所を訪ねた時のことごとが思い出される。
舞踏する永遠。交響する知、その形而上学。花鳥風月するそのままに、生を舞いと化し、(老、病、)死をも舞い(エロス、超越、永遠、空)と化す。大野一雄の遺してくれた時間。
5月5日 山桜も散り果て、全き新緑の中に在る。爽やかな端午の節句。
この奇跡の主体。歌い、叫び、思考し、舞い……する主体を何と呼べばいいのだろうか。そして主体の死を誰も知らない。
不可解、不可知。
感受する主体。交響する主体(間主体)。
神秘を感受する、不可知を感受する。
感受の中に在るもの。
意識する主体。
主体(意識)の旅。
無(非在、非実体)を旅する。
滅から滅へと、永遠から永遠へと。
花鳥風月するそのままに、生を舞いと化し、(老、病、)死をも舞い(エロス、超越、永遠、空)と化す。
カントリー・ダイアリー 53号 2020年4月21日
大巌の周りに山吹が吹きこぼれるように咲き出でている。
新型コロナウイルス、それは死を隠蔽しようとてきたわたしたちの文明への激しい問いかけである??生とは何かと。
山桜とともに咲き出で
山桜とともに散ってゆく??。
裏を見せ、表を見せて、散る紅葉。
カントリー・ダイアリー 52号 2020年4月8日
緊急事態宣言の、花祭りの日に
交響する生きもの。
交響する世界
人と自然と宇宙と。
〈人間〉であることが自然を疎外し
〈個我〉ということが他を疎外してゆく。
人と自然と宇宙と交響する。
交響があって
交響する美があって
美は超越。
ただただ超越。
すべてを、すべての意味を超越(実体の無)している。
(苦海浄土にあって、人なおもて荘厳(無常の荘厳)である)
超越(無常・実体の無、交響)という
宇宙的事象を生きている。
カントリー・ダイアリー 51号 2020年1月25日 旧暦元旦
一月一八日、二〇一一年に旅立っていった絵本作家、秋野亥左牟(イサム)が晩年を過ごしたアトリエを訪ねたいと、新春を過ごした鳴門から高松道を通って、瀬戸大橋に入り、下津井から倉敷、岡山を抜けて、山陽道の備前から上郡へ。山間の集落の最奥の、かつての茅葺屋根をトタンでおおった大きな旧家。イサムと旅を共にしてきた和子さんがにこにこ顔で迎えてくれる。家の裏には、真っ赤な屋根の「黙笑禅寺」。大きな蝋梅が蝋の花を咲かせていた。
裏から入ると、かつては石組の井戸でもあったのだろうか、大きな桝池。そして玄関へとつづく土間に足を踏み入れる。仰ぐと大きな梁が掛け渡り、茅葺の屋根裏へと吹き抜けている。夏は涼しかろ、冬は寒かろというもの。
イサムが駆け抜けた沖縄西表の向かいにある小浜での生活のことごとから、2011年の11月23日に亡くなるまでの間のこどごとに耳を傾けた。
「張り切ってタコを摂ろうと思うと、タコは見つからない。そういう時は、僕は人間なのです。人間になって、一生懸命にタコを探し回り、捕ろうとするのです。
「実は、僕は自分を解放したいために、描くのです。色と形、そして線、リズム、そういうものを通して、自分の経歴と自尊心をつぶしてしまって、描く行為の中でつぶしていく、そして自分はなんだろう、そこに現れてくる色々なものは何だろうと。それは、僕が描いているとは思わないのです。『とうもろこしおばあさん』の話を読んで、とうもろこしおばあさんが自分の内に入って来て、おばあさんが色々動くのです。それを僕は、ただ描いていく」??アキノイサム『イサム・オン・ザ・ロード』(梨の木舎)
亡くなる直前まで、物語を描きつづけ、娘のひざまくらでそのまま永遠の眠りについたという。その物語は『神々の母に捧げる詩』として二〇一二年に刊行された。イサムの最高傑作だ。他に『プンク・マインチャ』『おれは歌だ おれはここを歩く』『たいようまでのぼったコンドル』(共に福音館書店)などがある。
翌朝、和子さんの案内で、裏手の二階建ての蔵の重い板戸を開けて、中に入る。どっしりとした荒土の壁。一階が画廊となっていて、二階がイサムのアトリエ。二間ばかりの大きな板の仕事台。絵本づくりに興じたイサムの仕事場。
そして日の差し込む南側の縁台に座り込んで、コーヒーを頂きながら、比嘉康雄さんの琉球弧の古層を探り撮った写真集に見入る。そしてみんなで記念写真を撮って、お昼前に出発。
そして夜9時すぎ、やっとやっと、上郡からの長い道のりのドライブの果てに、無事八ケ岳の麓の我が家に辿り着く。空を仰ぎ見ると、天空にきっぱりとオリオンにスバルが輝いて、奇跡の宇宙がある。
カントリー・ダイアリー 50 2020年1月2日
存在の不安から、わたしたち認知革命を手にしたホモ・サピエンスは、虚構の物語を作り上げ、その中で生き、文化し、文明してきた。AIによる第二の認知革命を迫られているホモ・サピエンスは、今、AIのつくりなす余りにも巨大な虚構の物語から脱して、
存在の神秘に瞑目する時である。
人間とは何か、存在するとはどういうことかと。
刻一刻の今
死と生の(死ありて生のある)創造を生きゆく。
カントリー・ダイアリー 49 2019-11-14
存在の様式
「わたし」とは、多様な関係の結節点(結び目)としてあり、そうである以上、そこに「常に、同一で、それ自体として存在するもの」はなく、「わたし」は設定されたフィクションにすぎない。行為としての関係が存在を規定しているのであり、「わたし」とは「無常」なものである。
「わたし」が「わたし」であるいかなる根拠もなく、世界が世界であるいかなる根拠もない。
死についての物語も、生の物語も、自分が自分でいる間の物語にすぎない。
わたしたちは「言語化」することによって、「それ(関係、無我)」を「実体(常に、同一で、それ自体として存在するもの)」化する。
無常である。だがかく認識する存在の様式もまた、言語作用の、人の世の法なるべし。かく在ることの不可思議をこそ。自然というマトリックス(関係の総体)の、天然知能(自分から自由であること)の創造の只中(いまここ)を歩みつくしてゆくばかりである。
追記
国家や法というものもまた物語である。人は認知革命によって、ないものを想像する力を持ち、それらが生み出す物語の内に、己の生を位置づけ、意味づけてきた。物語以上にそれらは実在しはしない。
カントリー・ダイアリー 48 2019-10-29
吉福伸逸との対話
『吉福伸逸アンソロジー 静かなあたまと開かれたこころ』(サンガ)刊行記念対談に寄せて
(2019年10月27日 書店 B&B にて)
ぼくは吉福さんの立ち上げたC+Fで活動をしたり、またトランスパーソナル心理学に深くかかわってきたわけではありませんが、吉福さんと精神世界という同時代を生きた者として、少しばかりお話できればと思います。
六年前に旅立っていった吉福さんとの最初の出会いは一九七四年、彼がバークレーから帰ってきたばかりの時でした。ぼくが七一年に旅したインドの旅行記(『空なるものの愛に捧げる詩』)を出した出版記念会に、彼のバークレー時代の友人が、吉福さんを伴ってやってきたのです。ぼくはその前年『チベットの死者の書』を自主出版して、この年、講談社からその普及版が出たばかりでした。七四年というのは、前年オイルショックがあったり、小松左京の書いた『日本沈没』がベストセラーとなったりして、日本が沈没するかもしれないと不安と死を突きつけられていた時代でした。そしてそれは日本の精神世界の曙の時代でもありました。
吉福さんは四三年生まれで、ぼくは四二年生まれ、ほぼ同時代を生きてきています。ぼくは六五年、前衛映画(アンダーグラウンド映画)を作りたいとニューヨークに渡り、吉福さんは六七年ジャズの勉強にとボストンに渡っています。
ぼくのニューヨークでの、第一日目のことです。知人に紹介されて、コロンビア大学で映画を教える傍ら、下町で若者たちに映画を教えていたボブ・ロウという人のスタジオに入ると、これからサイケデリック・ショーを見にゆくと言う。一緒に出かけて、ショウの後、そのショウの打ち上げパーティーに連れてゆかれました。そして最初に紹介され握手したのが、向精神薬とかサイケデリクスと呼ばれるLSDを世に広めたとしてハーバード大学の心理学教室から追い出されたばかりのティモシー・リアリー、次に握手したのがビートの詩人アレン・ギンズハーグ、そしてその次がやはりハーバード大学の心理学教室から追放されたばかりのリチャード・アルパートでした。リチャード・アルパートは後に、インドに出かけて、グルに会い、ラム・ダスとして精神世界の先鞭をつけることになった、吉福さんの訳された『ビ・ヒヤ・ナウ』を一九七〇年に出しています。そうした新しく台頭してきたサイケデリック・レボリューションの嵐の中で、映画を作っていました。サイケデリックとは、魂を解き開くという意味です。LSDなどの向精神薬による魂を解き開く革命の嵐が吹いていた時代でした。
当時の六〇年代を知ることのできるフィルムがありますので、それを上映しみたいと思います。六七年に制作した『GREAT SOCIETY』です。黄金の60年代を告げたアメリカが、ケネディー大統領の暗殺から、キング牧師の公民権運動などを経て、サイケデリック世代の登場へ、そして泥沼化してゆくベトナム戦争へと突入してゆく様を、一九六〇年代アメリカのニュースフィルムを主体にコラージュしながら描いたものです。
そして六九年に帰国し、七一年インドに出かけ、そこで映画のカメラを盗まれてしまい、その時カトマンズの本屋さんで出会ったのが『チベットの死者の書』でした。以後、映画作りを止めてしまったわけです。
吉福さんもやはり七一年、それまでのジャズを断念して、ブラジル、メキシコへ旅に出ています。その旅の中でカスタネダの『ドン・ファンの教え』に出会ったといっています。その後バークレーでサンスクリット語を学んで、この頃トランスパーソナル心理学の源流に触れて、七四年に帰国しています。当時は、サイケデリック・ドラッグによって精神世界といったものが開かれてきたものの、ガイドとなるべき地図もなく、模索と混乱と興奮の時代でした。
吉福さんは、帰国した当時、すぐにもサンスクリット語の勉強にインドへ出かけると言っていたものの、ぼくたちと付き合う中で、精神世界を求める若者たちの中に余りにも多くの問題を見てしまったわけです。
ある時、吉福さんが我が家にやってきて、「おおえさん、これはまずいよ」というわけ。「この人たちは、自分を解き放つのではなく、教えの中に呑み込まれていってるだけじゃないの」と。
我が家にはインド志向の、あるいはインドから帰ってきたものの、着地できない若者たちが、たくさん出入りしていました。そして我が家の周りには次々に新しい宗教やグループの教えが持ち込まれてきて、その度に、友人たちが、自分を確立してゆくのではなく、その教団のドグマの中に奪い去られてゆくということが起こっていました。
そうした精神世界の当時の惨状が吉福さんを、日本に押し留めてしまって、彼はインドに出かけられなくしてしまったわけです。
いま改めて、吉福さんのアンソロジーを読み返してみると、アメリカからの帰国時に、すでに後の、しっかりと個を見つめて、個の確立をしてから、その個を包み超えてトランスパーソナルな領域を切り拓いてゆくという視点が、しっかりと確立されていたのが読み取れます。そしてその奥には仏教というベースがあると。
七七年から七八年ころには、『メディテーション』という雑誌も刊行されてきたのですが、ジャンルとして未だ確立しておらず、ジャンルの名前もないということで、『メディテーション』の編集長の三沢さんと吉福さんとぼくで相談して、精神世界という言葉ではということになり、「精神世界」の端緒が切られていったわけです。
西荻窪の「ホビット村」では、吉福さんと山尾三省とぼくとで「光・ワン・アートマン」という講座を持ったりしましたが、その後、吉福さんはC+Fコミュニケーションを立ち上げ、トランスパーソナル心理学の確立と、トランスパーソナル・セラピーのワークショップへと向かって行ったわけです。
吉福さんの下には、道を求めてさまよう多くの若者たちが集まり、そのセラピーの場は大変だったでしょうが、その若者たちのことが気になってしようがなかったのではないかと思います。とても共感力の強い人であったのだと思います。
一九七〇年にラマ・ファウンデーションから出されたラム・ダスの『ビ・ヒヤ・ナウ』の初版本を見ることの機会はないと思いますので、紹介したいと思います。大きな箱の中に、本のみならず、グルのポスターやシルクスクリーンの曼荼羅などの入ったキットとなっています。この本はバークレーに住んでいたフサコさんからサカキナナオや山尾三省さんなどが六十年代の終わりころに立ち上げた「部族」というコミューンに翻訳しないかと送られてきたものですが、そこでは翻訳出版できないというのでぼくのところに持ち込まれてきたものの、ぼくも当時ミラレパの翻訳にかかりきりだったので、吉福さんに翻訳をお願いして、翻訳出版にいたった次第です。
そして八三年、ぼくは東京から八ケ岳の麓へと移り、八八年には、吉福さんにも参加してもらって、いのちの祭りを八ケ岳で開催しました。
一九八六年にチェルノブイリ原発で大きな事故があり、チェルノブイリ原発事故を誘発したのと同じ低出力実験を伊方原発でやるというので、大きな反原発のうねりが全国的に広がり、そんな中で、原発ではなく命を解き放つ文化をと、四千人の若者たちが八ケ岳に一週間キャンプインしながら、脱原発に向けて、わたしを解き放ちつつ、歌い、話し合いしたイベントでした。
また九〇年にはC+Fワークショップにも参加してもらって、長野県の美麻村で「私を癒し、地球を癒す」を開催しました。
それは反原発の高まりの中で、参議院選挙に向けて、三つの反原発グループが名乗りを上げて、何とか一本化できないものかと協議を重ねたにもかかわらず、まとまることができずに、三つの派がそれぞれに立候補したものの、一人も当選者を出すことができずに終わってしまい、その反省から企画されたものでした。
わたしの変容が世界の変容をもたらしてゆく、わたしの変容なくして世界の変容はありえないという視点から企画されたのもので、わたしを解き開くワークショップ(特に、ミンデルの『紛争の心理学』をベースにして対立を超える試み)をしつつ、社会の変容を推し進めてゆく道を模索した企画でした。
そして八八年のいのちの祭りの翌八九年に、吉福さんは、存在を遊ぶべく、ハワイへと移り住んでしまったわけです。
吉福さんがハワイに去った後、吉福さんの目指した個の確立と超個の実現への潮流を切り拓いてゆく作業が力を失ってしまったことはとても残念な思いです。吉福さんの人に切り込む力、そしてその求心力は凄いものがあったとつくづく思わせられます。
その後、精神世界の潮流は、ひたすら、わたしの癒しに向かっていったように見受けられます。
また今年、ケン・ウィルバーの『万物の理論――ビジネス・政治・科学からスピリチュアリティまで――』が『インテグラル理論』と改題されて日本能率協会マネジメントセンターから出版されましたが、時代の推移を感じさせるものがあります。
吉福さんの言う「自分から自由であること」、それが一番困難なことなんだろうなと思わせられます。
彼は「僕自身のためにセラピーをやっているんです」と言っていますが、セラピストとクライアントという上下関係ではなく、人間と人間との出会いの中で、共に裸の自己になってゆく作業をされていたんだなと思います。
また八八年のいのちの祭りで問われたもの、そして二〇一一年の福島の原発事故で問われたもの、それは、原発の在り方のみならず、「存在するとはどういうことか」ということであったのではないかと思います。わたしたちの存在の在り方こそが問われているのだと思います。存在への切り込みがなくなりつつある、という危機感があります。
ところで、ぼくの大きな関心事は、「自分探し」や「わたしは誰か」とか、あるいは「癒し」といったテーマではなく、「存在するとはどういうことか」ということにありました。存在しているとは、どういうことかと。
吉福さんは四三年生まれで、戦争体験は記憶の中に刻まれていないと思うのですが、ぼくは敗戦時三歳で、ぼくの生の最初の記憶としてありありと刻まれているのは戦時体験です。
太平洋戦争の末期、三歳になったばかりのぼくは、向こうに見える大きな街が夜空を焦がして燃え上がるのに恐怖しながら、隣組の人たちと共に、母に手を引かれて、近くの丘へと平野を駆けていました。近くに飛行場があったものですから、ときどき機銃掃射をかけながら爆撃機がドドドーと迫ってくる。
そのときぼくは、小さな流れの上に掛けられた石橋の隙間に、ゴム草履を覆いた足をからめとられて、もんどり打って、あぜ道に叩きつけられてしまいました。だが母は、轟音の暗闇の中、それと気づかぬまま、隣組の人たちと一緒に、恐怖の闇の中を丘の方へ駆けていってしまいました。
ぼくはたった独りで、足を引き抜こうともがくものの、すっぽりと石の隙間にはまり込んだ足はいくら力んでも抜けようとはしません。
その間にも、時々こちらに向かって、爆撃機が機銃掃射をかけてくる。
そこにはまぎれもない「わたし」がいました。母から、世界から引き裂かれて、一人捨て置かれた「わたし」がそこにいました。
まぎれもない死がそこにあり、ぼくは抜き差しならない「わたし」というものに向かい合わされ、そしてまさにその「わたし」が死に直面していたわけです。
死と対する中で、まざまざと「わたし」を自覚し、「わたし」を自覚するほどに死の恐怖がぼくを満たしていったのです。
人は生まれて、「わたし」と言った瞬間、「わたし」と「わたしでないもの(他者、世界)」に引き裂かれてしまいます。それまで未分化で、大いなる「一」のものであったものが、「わたし」と言うことによって、わたしでないものを作り出して、「一」から分かたれてしまうのです。こうして人は、大いなるものから引き裂かれて、存在の不安を抱えながら生きてゆくことなるわけですが、それは普通、もっとゆっくり、穏やかにやってくるものです。
ぼくにとっては、この死の問題を解決しない限り、生にはたどり着けないという切迫感が二十を過ぎるまであり、たびたびその悪夢を見ては恐怖に目覚めたものです。
その存在の不安というトラウマ的事態は、後に、サイケデリック体験の中で、それらを俯瞰的に追体験することによって、解き放たれていくという体験がありました。
またサイケデリック体験の中で、わたしという個我の壁が開かれてゆくにつれて、わたしは世界となり、世界はわたしとなるという体験をしたものです。生死を包み超えた生とでもいえるのかもしれません。
サイケデリック体験の中には様々なヴィジョンがあり、神々があり、浄土や天国といったものがありしましたが、ぼく自身の関心は、神とはどのような実体を持っているものなのか、そしてそもそも「存在するとはどういうこと」かということにありました。それに一つの視座を与えてくれたのが『チベットの死者の書』でした。
『チベットの死者の書』には、鮮やかな様々なヴィジョン、神々や死後の世界が描かれて、絵解きのようにしてそれらの本性とは何かが説かれていました。『チベットの死者の書』は、死後の世界や輪廻転生する生というのはマーヤ、虚妄であり、わたしたちが作り上げた物語にすぎない。永遠不滅な魂といったものはありはしない、そのことに気づきなさいと繰り返し説いています。
「死をかかえもった生」を見つめ、「死をかかえもった生」そのものの中に答えはあるのではないかと思います。
インドの人たちは、人生の段階を「四住期」という四つの段階としてとらえています。学生期、家住期、林住期、そして遊行期です。勉学に励む学生期を経て、結婚し、子どもを作り、家の経済を支える家住期を終えると、家(俗世)を出て森に住み、霊性を探求する旅に出る。そして人生最後のステージでは輪廻からの解脱(ニルヴァーナ、寂滅)を求めて遊行し、そこへと帰入してゆく。そここそ人生のファイナル・ゴールなのだからと。
「死をかかえもった生」にとって、そうした人生のファイナル・ゴールを見据えることは、しごく当然なことであって、トランスパーソナル心理学がそうした視座を提唱したことは、またしごく当然なことだと思います。
そして今、私たちに問われているのは、トランスパーソナル心理学がファイナル・ゴールとしてきたそのゴールを、実体化してしまうことによる危険性をしっかりと見据えておくことだと思います。そのファイナル・ゴールは、ブッダやケン・ウィルバーも言っているように、無境界で、無分節で、非実体的なフィールドであるものです。それを実体化してしまうと、その唯一の実体である、神とか、ドグマとか物語を巡って、互いに血に血を争う戦いになってしまう他ありません。
吉福さんは最晩年、「資本主義(貨幣経済)の問題、民主主義(言葉)の問題、それとヒューマニズム(いのち)の問題という三つのテーマ」で本を書き始めてるといっていましたが、ケン・ウィルバーが成してきた作業、霊性ないしトランスパーソナル心理学的な視座から世界全体を見つめ返す作業が問われてこなければならないと思います。
イスラエルのユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』において、人という類がホモ・サピエンス(原生人類??賢いヒト)になったその秘密は「まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。……伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた」のであり、「膨大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾良く協力できる」ようになった。「とはいえこれらのうち、人々が創作して語り合う物語の外に存在しているものは一つとしてない。宇宙に神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない」と。
そもそもハラリがこうした真の自己などないという視点を持ち、『サピエンス全史』を通して貫く視点??人類はその発生の根幹をなす認知革命以来、存在に意味付けをするために、〈わたし〉や社会や国家という虚構の物語を作り上げ、その虚構によって〈わたし〉を保持し、社会や国家を維持して、虚構なくして人類は生きていけないものだという視点??を持つようになったのは、ハラリが長年師事してきたミャンマー生まれでその後インドに移ったヴィパッサナー瞑想の指導者サティア・ナラヤン・ゴエンカ(一九二四年〜二〇一三年)の自己観察の瞑想法に多くを負っています。
今こそこうした視座からの全存在的作業が必要とされる時ではないかと思います。
カントリー・ダイアリー 47 2019-8-15
身軽の哲学
八年前、東日本大震災の後のシンポジュウムで対談した山折哲雄さんが『「身軽」の哲学』(新潮選書)を出された。今や八十八歳となり、書籍を捨て、「思想」をも棄てて、存在の軽みへと踏み出したいものだと。
インドの人たちは、人生の段階を「四住期」としてとらえている。学生期、家住期、林住期、そして遊行期だ。勉学に励む学生期を経て、結婚し、子どもを作り、家の経済を支える家住期を終えると、家(俗世)を出て森に住み、霊性を探求する旅に出る。そして人生最後のステージでは輪廻からの解脱(ニルヴァーナ、寂滅)を求めて遊行し、そこへと帰入してゆく。そここそ人生のファイナル・ゴールなのだから。
書を捨て、「思想」という存在の重みを捨てて、森に住み、旅に出る。精神の、霊性の世界をそのままに生きる。その姿を山折さんは、西行に、親鸞に、芭蕉に、良寛に見て、その旅を追ってゆく。
半僧半俗の、無常の挽歌を歌う西行に、「〈往生〉から半歩離れ、〈成仏〉や〈涅槃〉からも半身しりぞいて、うつくしい露のしずくを掌にうけとる、その法悦の瞬間を手にする、そんな幻想のなかに生きていたのかもしれない……」
願はくは花の下にて春死なん
そして親鸞は、非僧非俗の道をゆく。その果てに「自然法爾」に辿り着く。
なんじ、すでに、そのままの姿でほとけなり。往生なり、浄土往生なり。
某(それがし)閉眼せば、加茂河にいれて魚に与ふべし 親鸞
次いで、漂泊の旅を旅する芭蕉がいる。
見るところ 花にあらずといふことなし。
だが軽みへと飛びきれなかった芭蕉がいるとは山折さん。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 芭蕉
最後に、林住に生涯を送った良寛。
形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉 良寛
そこには道元に心酔しながら(己の法嗣を誰にしようと悩んだ)道元さえも軽々と超えていった良寛がいると。
これら林住の旅は、天然知能の遊戯三昧と重なってくる。天然知能の、天然創造に遊び暮らす中にこそ、人という存在のなにものかがあるのではなかろうか。
「遊びごころを抱き
旅ごろもを身にまとって
去っていった
無へ」 山折哲雄
そして己の身を顧みる……。
毎日が死に支度。ならば、「死に支度なんてやめようと決めました」とは瀬戸内寂聴さん。
生から死に移り変わるのではない。生あるときは生。死あるときは死。 道元
死はない。そこに体験するわたしはいないから。
永遠の一日(一刻)がある。
付記
八月九日(二〇一九年) サンちゃんが消えた。昨日の午後、買い物に出かけようと、いつもは閉めたままの裏口の電柵の門を開けて、帰ってきたら閉めればいいとそのまま出かけて帰ってきたら、我が家で飼っているサンちゃんの姿が見えない。
裏口から、下の集落から山の中の堆肥工場へとトラックの往来する道路に出て行ったらしい。この一年ほど、老齢となりよぼよぼと歩いて家の周りを散歩するばかりだったので安心していたのがいけなかったようだ。
老いて重そうだと電話を記した首輪も外してしまっていた。かつてはサンちゃんがよく出かけていた下の集落や犬のお友だちのところを探したり、道路わきの水路に落ちてないかと見て回ったり、あるいは己の死に場所を求めて茂みや森に入っていったものかと探してみたものの見つからず、今朝も見回りに出かけて、出会った下の田んぼのおばあさんにサンちゃんのことを話して、見かけたらとお願いして帰ってくる。
夕方草刈りをしていると、犬を連れた若者がやってきた。この上のうち(働いているところ)の堆肥工場で、今日の昼過ぎ普段は人の行かない工場の裏のフェンス際に出た人が、首輪のない飼い犬とは思われない白い犬が倒れていると。弱っていたので水をやって、仕事が終わったので、家に帰ってから飼い犬の散歩を兼ねて、その犬に餌をやりに行こうと、道に出たら、オバアに会って、うちの工場に白い犬が倒れていると話したら、それはおおえさんのところの犬じゃないかと。それでやってきましたと。
一緒に軽トラに乗って我が家から道を山の中の工場へと一キロほど登り、工場内の裏のドアを開けると、山際のフェンスの際に、まさしくサンちゃんが倒れてうずくまっている。奇跡が重なって、サンちゃんの発見とはなった。
発見されなければ、そのまま生を終えていたことであろう。今までは下の集落へ出かけることはあっても、一度も上へは山を登っていったことはなく、本能に従って、己の死に場所を求めて山に分け入っていったのかもしれない。野の生きもののごとく、その死において、山に分け入る。山へ還ってゆく。それが本来の生の姿なのかもしれない。
はじまりもなかったかのごとく、終わりもなかったかのごとく。
カントリー・ダイアリー 46 2019-7-15
死を包み込む文化
また一人、盟友が旅立っていった(二〇一九年六月十五日)。クマさんこと塩原日出夫。彼と初めて会ったのは、一九八八年八ケ岳の山麓で開かれた「いのちの祭り」で、写真の記録班として彼が参加してくれているときだった。以後、鳥山敏子さんの「賢治の学校」の『孫悟空』の上演や記録に関わり、賢治の生徒たちへのインタビュー・写真集『先生はほほーっと宙に舞った』(自然食通信2001年)を出してもいる。部族の詩人であったサカキナナオのチェコの旅に写真班として同行し、また多くの演劇集団と深く交じり合いなどしてきた。そして八ケ岳に移ってからは、わくわく田んぼを共にし、そして長年の夢であったパン工房を立ち上げ、そのクマパンはわたしの最上のパンであった。パン種のごとく、クマさんの夢の種は、娘の抱穂をはじめ、クマさんを慕ってやってきた多くの若者たちの心に宿って、育まれているのが見える。それらの夢の種こそ、クマさんが残した宝ものにちがいない。
「二〇一七年五月に体調の不具合で受診したとき、大腸ガンが見つかってしまって、それからは生と死について真っ正面から向きあわざるをえなかった二年間でした。死を宣告されたようで不安だったけれど、ガンだからって人はカンタンには死なないはずだと、手探りで、ガンについて学び始め、いろんな本を読み、いろんな治療法を追いかけては試し、生命力、自然治癒力、免疫力に希望を求めて、明るい方向への道を探し続けてきた二年間でもあったなあと。
けれども、○ちゃんは本当に手強かった!
半年後には肝臓への転移が見つかり、その後は、三ヶ月ごとの健診のたびに、減らしたい○ちゃんは増えたり大きくなっていくばかり。
確かな治療方法が見つけられないうちに、クマさんの体はあちこちでいろんな障害にみまわれて、ボロボロになり、体重、体力が激減していったのです。また、ガンの痛みが現れ出してからは、辛い苦しい痛みとのたたかいの日々にもなりました。(中略)
わたしたちは、予定よりちょっと早すぎるクマさんの旅立ちに、無念な想いでおりますが、クマさんはこれまでの人生をじゅうぶん生ききった、悔いはない!って言っていたし、○ちゃんとの共存の日々も精一杯生きたと思うので、痛みから解放されたくて先に逝ってしまったクマさんに、〈先に行ってもいいよ、お疲れさん!〉って言ってあげたいと思うのです」(チエ)
六月十七日 クマさんを囲んでのお別れの飲食会があり、はるばる大鹿村からアキとスマちゃんに、ボブとミドリさん、そしてサイモンがやってきて、一緒にクマさん宅に向かう。クマさん、チエちゃんを慕った多くの人たちが、近隣から、また東京などから大勢駆けつけ、クマさんの交流の広さと深さに驚かされる。クマさんの撮ったアレン・ギンズバーグやナナオや部族の人々などの写真が並べられてある。
ボブちゃんがクマさんに旅立ちの歌とて「鷲の歌」とナーガの「そして旅が終わったら、美しい川のほとりで会おう、そして旅が終わったら、美しい川のほとりで会おう」を歌い、吹き抜けの大屋根の下の、ベランダ兼パン工房のところに、近隣の友人たちが用意したり持ち込まれてきた食事が並び、廻りの豊かな緑の下にしつらえられたテーブルで会食しつつ、クマさんを偲び、語り合った。そして夕刻には東の空に虹が掛け渡った。
六月十八日 星匠くんが手作りした棺桶に、みんなが色とりどりのメッセージを書いて、花に埋め尽くされて出棺して、荼毘に付されて、クマさんは旅立っていった。手作りの、とても心のこもった、葬送の儀だった。多くの人々を愛し、愛されたクマさんがいた。そして多くの人たちがこんなお別れ会をこそと思ったものだった。そこには新しい葬送の形があった。家族葬ならぬ「友達葬」。まこと、愛に包まれて旅立っていた。
「ないものを想像する力」を持ったホモ・サピエンス。なにもないそこに、意味や価値や世界観を創り出し、もはや、ないものがないと生きてゆけないわたしたちがいる。
死と葬送。
クマさんの葬送の儀のそこには、死を包み込む愛があるのが見える。愛の中で死が受け入れられ、超絶へと昇華されてゆく。意味や価値や世界観を超えてゆく--なにもないところへと。人はそこで癒され、この世に帰着する。
何年か前、クマさんとチエちゃんがわが家の縄文蓮の田んぼを訪れて、咲き誇る蓮の華を見て、「この世ならぬ景色」といったチエちゃんに、クマさんが「じゃあ、あの世!」といったことが思い出される。「あの世」もまた、今ここにあるにちがいない。
七月二日 咲きはじめた縄文蓮を持ってチエちゃんを訪ね、クマさんの霊前に。
カントリー・ダイアリー 45 2019-2-10
超越と実存
鈴木大拙は霊性についてこう記している。
「なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、又一つであってそのまま二つであると云ふことを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である」(『日本的霊性』)
現象する多は、「一」の顕れであり、同時に多は即一であり、この「一」を見るものこそが霊性であると。
そして大拙(一八七〇〜一九六六)は、戦後の日本の精神的独立のために『日本的霊性』を世に問うたのである。同時代を生きたインドのヴィヴェーカーナンダ(一八六三〜一九〇二)やオーロビンド・ゴーシュ(一八七二〜一九五〇)もまた、インドの独立に向けて、不二一元論をもって霊性(多即一)からの変革を問うている。そして国家を超える共同体を模索してイスラーム学に分け入っていった井筒俊彦(一九一四〜一九九三)もまた存在一性論をもって大拙のそれに応えようとして、東西の思想の共時論的な構造を抽出する仕事(『意識の形而上学??「大乗起信論」の哲学』)を世に問うている。
ハラリの言うように、物語の力によって社会が変容してきたからには、こうした精神的場こそ問われるべきものである??精神の革命こそが社会の革命を導き出してゆくのである。
ところで大拙は、すべてのものの根源であり、そこから多なる世界が現れ出てくる超越的原理として「一」を位置づけ、なおかつそれに「神」や「実在」ということばをさえ付与しようとしているが、「一」のそこには主体も客体もなく、無分節で、不可知で、「一」として実体化されるような、世界を根拠づけるような何ものも(超越的原理など)ないはずである。
そもそも世界を根拠づける一つの超越的原理など無いこと、存在には根拠が無いこと(諸法無我)を提示して見せたものこそ、ブッダであり、仏教ではなかったのかと、曹洞宗の禅僧南直哉は『超越と実存??「無常をめぐる仏教史」』(新潮社)おいて激しく問いかけている。
三つ子の魂百までと言われるが、南は、三歳の時に死と対峙して以来、死すべき「自己」の実存の無常と向かい合ってきたという。(わたしもまた三歳の時に太平洋戦争末期の空爆の中で死と直面させられ、生涯の問いとなったということがある。)以下南の論点を追ってみたい。
「ではなぜ、人間は老い・病・死を忌避し、そうならないうちには傲りを持つのか。……それは人間が『自己』という様式で実存するからである。ネズミには『自己』がない。(中略)
『自己』とは事実ではなく、観念である。『自己』は『私がいる』『私である』と認識する実存と、それを承認する『他者』が共同で仮設している存在様式なのだ」――南直哉『超越と実存――「無常をめぐる仏教史」』(以下引用同)。
そうした自己(我)の、実体がないこと、世界の空なることが、最も初期の仏教経典スッタニパータには、説かれている。諸行無常、諸法無我こそがゴータマ・ブッダが見開いた実存の様態なのである。スッタニパータには次のようにある。
「つねによく気をつけ、自己に固守する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死をわたることができるであろう。そのように世界を観ずる人を、死王は見ることがない」――スッタニパータ
こうした諸行無常、諸法無我である空なる実存を、上座部仏教は要素還元論的に実体化し、大乗仏教は「仏」や「涅槃」や「如来蔵」や「仏性」や「真如」や「一」や「あるがまま」といった超越的理念との一体化の物語の中に溶かし込んで実体化していったと、南は仏教史をたどりながら論述してゆく。
「ここにおいて明らかなのは、『華厳経』が唯心論という枠組みで仏教に大規模に形而上学、すなわち『実体』論を持ち込んだということである。
いや、『智慧』や『心』には『実体』などない。それ自体が『空』なのだからと、過去に多くの仏教書は言ってきた。
繰り返すが問題はそうではない。存在の問題として持ち出され語られるなら、どう説明されようと、それは『実体』である。この語られ方が問題の核心だと自覚することこそ、実は『空』の思想なのだ」
さらに密教の真言については――。
「真言の存在は、如来が作り出したものでも、誰かに作らせたものでもなく、制作に参画(『随喜』)したわけでもない。それは、それ自体としてあるべきようにある(『法爾』)、というのである。この考え方は、言語が単なる記号ではなく、それ自体が実体的な力を持つことを主張している。人間が言語によって構造化された『現実』に拘束されている事実を考えると、突飛な発想ではない。これに対して、無常・無我・空のアイデアは、この言語の拘束力は錯覚(『無明』)だとするだろう」
また「見性」を云いする禅を取り上げて言う。
「中国禅における『見性』はある特定の経験に超越的な意味を付与して実体視することである。鈴木大拙が『悟り(=見性)』を天変地異の如く大げさに語るのは、そうした意味付けのゆえである」
そして最後に道元を取り上げて――。
「道元の坐禅に関する言説において核心をなす考えは、『非思量』というものである。(中略)意識と言語作用の絞り込みによって、自意識が解体された状態に直面し、それを覚知するのだ(『箇の不思量底を思量せよ』)。この心身の事態が『非思量』なのである。
……『非思量』において解体された、従来の自意識に基づく日常的『自己』を、行為様式を転換して成仏を目指す主体として改造しようというのである」
南は「無常をめぐる仏教史」をたどりながら、その果てに、道元において「『悟り』も『涅槃』も現実的には何であるか認識不能だから、『成仏』は『自己』にはできない。『自己』に可能なのは、『仏になろうと修行し続ける』主体として実存することである」と結論づける。無常の実存を生きることの、まっとうな仏教の答えであろう。超越的原理というものが言語作用以上に存在しないもの、言語作用によって実体化されたものである他ないからには、無常の実存を生きつづけることの他にはなにもないことだろう。
ここで「仏(ブッダ)」とは文字通り、超越的実体などないと「覚り知った者」ということであり、そこに超越的な実体としての仏などあるはずはない。??非時間(永遠)の只今に関係生起(縁起)的に生きて在る霊性的様態。
なぜそこになお「仏になろうと」すること、「『仏になろうと修行し続ける』主体として実存すること」があるのだろうか。
南は言う。
「縁起の次元を自覚しつつ、仏法に則って主体を再構成していく全過程こそ『さとり』なのであり、そこに刻々と現成してくる主体が仏である」と。仏と修行は同時なのである。修行するその行為が刻々と仏を現成しているのである。
そして「自己であることはそれ自体、課せられた苦しみなのだ。……つまり『自己』という困難を解消する。……『自己』を無意味にする『報われない善行』……それが『修行』ということなのである。……『この世は無常だ。では、どうする?』。これが仏教の話である。……存在と不在、言語と言語以前、自己と非自己、その間を往還する運動として坐禅は、現世において『自己を消去する自己』の主動力となる。『ではどうする?』は止まない問い、止んではいけない問いなのだ。その問いが止んだ時、仏教はそこで終わる。……肯定されるべきは、宇宙の生命ではなく、この非情であろう」(『「正法眼蔵」を読む』南直哉 講談社選書メチエ)
ここに、一つの、仏の道がある。
実存の在り方は、無常(縁起)であるからには、虚構の超越的な実在に己を仮託することなく、無常の実存を生きる。それこそ仏(覚者)である、という道の選び方である。
だがなお、それは人の物語としてあるものだと思われる。苦といい、修行といい、非情といい。
人は、人なるものの「解釈」や「物語」を脱け出ることはできようがない。世界そのものに、そのような価値も意味も世界観もない。そのようにある以外に、不可知である。
草木禽獣虫魚に仏性(「仏になろうと修行し続ける」主体)があろうがなかろうが、自然の法がそう(縁起)であるなら、草木禽獣虫魚が自然の法(縁起)の外にあるなどありえようか。
いやむしろ、草木禽獣虫魚の祈りに支えられてこそわたしたちがある。
そして人にはまた、己を超え出て、世界と「非二」になろうとする機能もまた自然として埋め込まれている??その「我」の死(「空、縁起」)において。死王は見ることはない。
認知革命によって覚知を得たホモ・サピエンスの、織りなす迷妄のその果てに、AIや遺伝子操作などのテクノロジーによって、人そのもの、世界そのものが極限に達して瓦解してしまいそうだという認識が共有されつつある今日、無常の実存(すべての存在は実体がない、自己の存在には根拠がない)に向かい合うところから、新たな物語を編み出す以外に道はないのかもしれない。すべての物語や存在の非実体性を潜り抜けてゆく。そこからわたしたちの新たな、第二の認知革命がはじまるのではなかろうか--。
郡司ペギオ幸夫はその著『天然知能』(講談社選書メチエ)において、「人工知能」という情報処理システムは、自分(システム自体)にとって都合のいいように世界を把握するのであり、「人工知能」でも自然科学的な知能である「自然知能」でもなく、「天然知能」こそ、我知らぬそこ(無常、無我)から世界を紡ぎ出して来る創造の源であり、今最も求められているものだ。人口知能と自然知能の収束点を突き破って、天然知能が現れてくると。
そして、そもそも神経細胞は天然知能である。意味の伴わない機械的処理系こそ、我々の脳であり、私たち自身であるが、そこに異質性の全面的受け入れが認められるからこそ、外部(我知らぬそこ)からの受け入れが、質の種類に関して限界を突破して、意識が発生する、と。わたしたちは人工知能に置き換え不可能な、何者かなのである。
「『ダサカッコワルイ』は、文脈を逸脱することで、自由意志を開設し、決定論の存在と不在の間を不断に運動することで決定論を宙吊りにし、その運動の原因となる無際限に異質な外部を、局所性の不在によって招喚するのです。それが天然知能の性格なのです。……ふったち(注・天然知能)は、基本的に外部の異質なものを、ただ徹底して受け入れることです」 郡司ペギオ幸夫
天然知能なくして人は生の創造の森に深く分け入ってゆくことは叶わない。天然知能のもたらす我知らぬそこ(無常、無我)から紡ぎ出されてくる物語をこそ。天然知能--それはまたトランスパーソナル(超個的)なフィールドとも重なってくるはずだ。
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり 道元
カントリー・ダイアリー 44 156号(2018-12-10)
霊性へと――
人という種(ホモ・サピエンス)は、無いものを想像する認知革命を我が物として、目覚ましい進化を遂げてきた。そして意味を作り上げる物語なしには生きてゆくことができなくなってしまった。物語が人々をアイデンティファイし、統合し、さらなる進化を推し進める力となってきた。
狩猟採取時代には、大地や自然や宇宙は人よりも遥かに大きな力と神秘に満ち満ちていた。すべてのものの中にカミ(霊)を見、カミ(霊)の物語を生きていた。人は霊としてそれらすべてのものと繋がり合い、それらとの深い関係性の中で生きていた。大地がわたしであり、星々がわたしだった。そのことに疑いはなかった。
やがて農耕生活をはじめると、人は自然を支配して、より大きな集団を形成してゆき、人と自然(霊)を二分化して、より大きな絶対的な力をもった神を、世界の外に見出してゆくようになった。神の物語の時代である。
産業化革命がはじまると、今や世界の支配者となった人そのものの内に、新しい価値や意味を見出すようになっていった。神は死に、人は人に目覚めていった。個の内には何ものにも代えがたく、何人も犯すことのできない真の自己があると。人間至上主義が高々と謳われていった。
そして今、その未来に、顕れ出てこようとしているものがある。AI、人工知能による、非意識型の知能が、人を超えて、人を支配しはじめている。脳は生化学的アルゴリズムとして理解され、その限りにおいて、AIはわたしたちよりも、わたしたちのことをよく知るようになる。そこにわたしたちの未来は開けているといわれはじめている。未知の、第二の認知革命の到来の、物語の予告である。
だが、その果てにあるものこそを問うてゆきたい。AIによる未来を論じた『ホモ・デウス』の著者ユヴァル・ノア・ハラリも、わたしたちがどういう物語を語り出すことができるかに未来はかかっているという。
ホモ・デウス(神なるヒト)は不死を実現しようと夢見ているけれども、果たしてそれは可能なのだろうか。
この生命の世界では、細胞レベルで見ると分かりやすいが、一瞬一瞬細胞が死につづけることで、細胞は新たに生まれ出ることができている。それが死んでゆくことができなければ、生を創造しつづけてゆくことはできようがない。常に死につづけることができることによって、生は己自身を創造してゆく。
そして種や生命圏全体としてもそのようである。個的な死を受け入れてゆくことによって、生命体は己の生命の流れをよりダイナミックな秩序をもったものへと創造し、進化を遂げてきたのである。だが新たな革命では遺伝子操作によってそれらは難なく解決されるだろうという。果たして遺伝子操作によって生命圏の大いなる秩序は保たれるのだろうか。
またAIは非意識型の知能を目指しているけれども、人にとっては、知能よりも意識の方にこそ、より大きな存在の根拠があるのではなかろうか。意識によってこそ、人という存在は存在たらしめられていると思われるからである。『なぜ世界は存在しないのか』のマルクス・ガブリエルが指摘するように、意識する意味の場に立ち現れることによって、はじめて存在は存在することができるからである。
意識とは何か。だが、未だ科学からその答えはない。答えがないのではなく、科学からは答えることのできない問いなのかもしれない。しかしそれこそ、ホモ・サピエンスの基底に他ならないのではないだろうか。
久々にスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を見た。人類の誕生である第一の認知革命が未知の石板モノリスの波動を受けてはじまり、そしてAIの支配する今、再びモノリスの波動によって第二の認知革命への不可解な意識の旅がはじまってゆく。意識の、その故郷へと。
意識の最前線にあるもの――それこそ霊性に他ならない。そしてそれは意識の最も根源にあるものでもある。
「あー」と人がはじめて発語したときの、「あー」の中にあるもの。「あー」の中には、響きのみならず、その人の全存在、全感覚、全世界があったはずである。鈴木大拙はその境地をこのように述べている。
「禅の見地からすれば、宇宙は円周のない円であり、われわれ一人一人が宇宙の中心である。もっと具体的に言えば、わたしが中心である、わたしが宇宙である、わたしが創造主である。わたしが手をあげる、すると見よ、そこに空間がある、時間がある、因果律がある。あらゆる論理法則、形而上学的原理が、わたしの手の実在を確認するために馳せ参じる」――鈴木大拙
やがて人類は霊性へと向かわざるをえないであろう。なぜなら霊性によってこそ人は最終的に支えられ、人類の救済のあるところだと思えるからである。そここそサピエンス全史のあるところではなかろうか。サピエンス全史とは霊性の歴史に他ならないのでは。
霊性について、ハラリはこう述べている。
「宗教が取り決めであるのに対して、霊性は旅だ。……霊的な旅はたいてい人々を神秘的な道に連れ出し、未知の行き先に向かわせる。この探求は普通、私は何者か、人生の意味とは何か、善とは何かといった大きな疑問から始まる。たいていの人が権力者が提供する出来合いの答えをそのまま受け容れるのに対して、霊性の探求者はそう簡単には満足しない。彼らは大きな疑問に導かれるままに、よく知っている場所や訪れたい場所だけではなく、どこへなりとも行くことを固く決意している。……霊の世界は私たちにはまったく馴染みがないが、じつは本当の故郷なのだ。この探求の旅の間、私たちは物質的な誘惑や取り決めをすべて拒まなくてはならない。この二元論の遺産のせいで、俗世界の慣習や取引を疑って未知の目的地に敢然と向かう旅はみな、〈霊的な〉旅と呼ばれる。
そのよぅな旅は宗教とは根本的に違う。なぜなら、宗教がこの世の秩序を強固にしようとするのに対して、霊性はこの世界から逃れようとするからだ。霊的なさすらい人にとって、とても重要な義務の一つは、支配的な宗教の信念と慣習の正当性を疑うことである場合が多い。禅宗では、〈もし道でブッダに出会ったら、殺してしまえ〉と言う。もし霊的な道を歩んでいる間に、制度化された仏教の凝り固まった考えや硬直した戒律に出くわしたら、それからも自分を解放しなければならないということだ。
宗教にとって、霊性は権威を脅かす危険な存在だ。だから宗教はたいてい、信徒たちの霊的な探求を抑え込もうと躍起になるし、これまで多くの宗教制度に疑問を呈してきたのは、食べ物とセックスと権力で頭がいっぱいの俗人ではなく、凡俗以上のものを期待する霊的な真理の探求者たちだった。」(『ホモ・デウス』)
霊性とはなにか。それを問う前に、何よりも、妄想する〈わたし(自我)〉の非在性に気づくことこそが鍵なのではなかろうか。欲望する妄想がさらなる不安を掻き立て、あるがままの世界を、あるがままの我を見ることを妨げつづけてきたのだから。
かつてブッダが言ったことを思い出す。
わたしたち人類は今や、神の非在に、そして我なるもの(自我)の非在――存在するけれども確たる永遠不滅の実体はなく、一つ一つの個が互いに他を含み合うようにして相互依存(縁起)して生起しているにすぎない(我の実体の空性)という、この宇宙のあるがままの自然法則(ダルマ――法)と向かい合う必要がある。
するとそこに、無境界な全一態としてあるわたしが、世界がよみがえってくる――絶対肯定のあるがままの世界。花は咲き、鳥は飛ぶ。
そここそ霊性の、豊饒の海……。
鈴木大拙は霊性についてこう記している。
「なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、又一つであってそのまま二つであると云ふことを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である」(『日本的霊性』)
現象する多は、「一」の顕れであり、同時に多は即一であり、この「一」を見るものこそが霊性だと。
大拙は戦後の日本の精神的独立のために『日本的霊性』を世に問うたのだ。同時代を生きたインドのヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)やオーロビンド・ゴーシュ(1872-1950)もまた、インドの独立に向けて、不二一元論(多即一)をもって霊性からの変革を問うている。そして国家を超える共同体を模索してイスラーム学に分け入っていった井筒俊彦もまた存在一性論をもって大拙のそれに応えようとして、東西の思想の共時論的な構造を抽出する仕事(『意識の形而上学』)をして世に問うている。
精神の革命こそが社会の革命を導き出してゆく――。
(注記)大拙はすべてのものの根源であり、そこから多なる世界が現れ出てくる「一」について、「神」や「実在」ということばを選び取っているが、「一」のそこには、認識する主体も認識される客体もなく、無分節で、 実体なく、不可知である。不可知なものについては、黙すべきである。
カントリー・ダイアリー 43 155号 (2018-10-12)
虚構を読み解く
『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリは「今後一、二世紀以内に、人類は消滅します。でも、それはわたしたちが自身を消滅させてしまうからではなく、バイオテクノロジーと人工知能を使ってわたしたち自身を変えるからです。体や悩や心を変化させることによって、わたしたちは今日のわたしたち自身とは別のものになるのです」と言い、新著『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来』で、AIがもたらそうとしている避けがたい未来について論じている。
人間性の本質は、生化学アルゴリズムやネットワークシステムの集合体であって、近代的自己がよって立つ、自由主義が掲げてきた人間至上主義の根幹とされる、個の内にある真の自己などというものは、自ら作り出した虚構、物語、意味づけにすぎず、人々が信じてきた「共有虚構」を維持するのはもはや困難になってくるという。有機体はアルゴリズムであり、生命はデータプロセスであり、知性は意識から切り離されたものとなり、非意識型の高知性のアルゴリズムがわたしたち自身よりもわたしたちのことをよく知るようになる。そしてロボットやAIに十分に対抗できるよう、わたしたち自身の身体や頭脳を人為的に強化しようと目論むようになり、ここにホモ・デウス(神なるヒト)が立ち現れてくる。AIによって張り巡らされた天国も地獄もある巨大な虚構の中にわたしたちは呑み込まれつつあると。
そもそもハラリがこうした真の自己などないという視点を持ち、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』を通して貫く視点――人類はその発生の根幹をなす認知革命以来、存在に意味付けをするために、〈わたし〉や社会や国家という虚構の物語を作り上げ、その虚構によって〈わたし〉を保持し、社会や国家を維持して、虚構なくして人類は生きていけないものだという視点――を持つようになったのは、ハラリが長年師事してきたミャンマー生まれでその後インドに移ったヴィパッサナー瞑想の指導者サティア・ナラヤン・ゴエンカ(1924年〜2013年)の自己観察の瞑想法に多くを負っている。
ヴィパッサナー(洞察の瞑想)とは、ブッダの法(ダルマ)の教えにもとづく自己観察による真実の体験の実践法である。心(意識)を呼吸にとどめことによって心を統御し、自分自身の内にある真実を見抜く洞察力を築き、心を浄化するといわれる。
ブッダの法は、それまでのインドのバラモン教がわたしの内には真の自己があり、その真の自己(我)は、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と同じであるされてきた世界観に対して、真の自己などない、〈わたし〉とはマーヤ(幻、虚構、物語)であり、世界は関係(縁)によって生起しているにすぎなく、関係が存在しているだけだとして、〈わたし〉という真の自己も神もないとする視点を提示してきた。
こうした視点からの眺めが、ハラリの著作に貫かれている。
ならばである。ならば何の問題もないのではないか。真の自己など虚構であり、その虚構性が剥がされつつあるのだから。ただ問題なのは、それがさらに抗いようのない巨大な虚構にのみ込まれつつあるからなのであろう。
とすれば、真の自己などないという視点に立ち戻って、そこから出発してみる必要があるのではないだろうか。真の自己などないという視点から立ち現れてくる世界をこそ見てみること。ブッダはそこに巨大な虚無を見たのだろうか。いや彼は光明をこそ見たはずだ。真の自己など幻であると見知った時に、世界そのものが輝くのを見たのではなかろうか。
わたしたちの内には生化学的アルゴリズムがあるにすぎないとされた今こそ、〈わたし〉を振り返る好機なのではなかろうか。ただわたしたちに、スマホを脇に置いて、〈わたし〉自身を見つめる時を持てるだろうか。
とはいえ、虚構なくして世界を維持できないことをハラリは見てもいる。
また、「世界は存在しない」という論点から〈意味の場(虚構)の存在論〉を展開しようとしている哲学者もいる。ドイツの若き哲学者マルクス・ガブリエル。
存在はそのものだけでは存在しえない。背景となる意味の場に立ち現れることによってはじめて存在し得ることができると彼は言う。そして、すべてを包摂する世界は、つまり世界はすべてを包み込んでいる故に、その外に、背景となる意味の場を持つことはできようがなく、その故にすべてを包摂する「世界は存在しない」と言う。
「いかなるものも、何らかの意味の場に現象するからこそ存在する。そのさい、すべてを包摂する意味の場が存在しない以上、限りなく数多くの意味の場が存在するほかない、というわけです。それらの意味の場は、互いに連関をなして一個の全体を形づくったりはしません。もしそうなら、世界が存在することになってしまいます。さまざまな意味の場がなす連関は、じっさい、わたしたちによって観察されたり惹き起こされたりしますが、それ自体、つねに新たな意味の場のなかにしかありえません」
????マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)
「わたしたちは、共通の状況のなかに自らを位置づけるべく、つねに虚構のイメージと現実の知覚とを協働させているわけです。もし何の幻想もなければ、わたしたちにとっては、……対象も現実も存在しないことでしょう」
そしてすべてを包摂する「世界は存在しない」その故に、「すべてを包摂する自己完結した真理など存在せず、むしろ、さまざまな見方のあいだを取り持つマネージメントだけが存在するのであって、そのような見方のマネージメントに誰もが政治的に加わらざるをえない????この事実を認めるところにこそ、民主制はあるからです。民主制の基本思想としての万人の平等とは、物ごとにたいしてじつにさまざまな見方ができるという点でこそわたしたちは平等である、ということにほかなりません」(以上、引用は同上)
今年来日したガブリエルはロボット工学の先駆者石黒浩との対談で、「ドイツ憲法には人間の尊厳は不可侵である、と。ドイツなら人間の定義こそ基本です。ドイツには大きな失敗があります。第一次世界大戦、そしよりひどい第二次世界大戦です。ドイツ社会として歴史を振り返った結果、あの失敗は〈非人間化〉のせいだという見方が定着しています。強制収容所は非人間化の果てなのです。だから確固たる人間の概念が必要なのです。人間の概念が揺らげば次に待っているのは強制収容所だからです。ドイツではこうした(AIロボットの)研究は人間を破壊するのではないかという恐れがあります。ドイツには見えない皇帝があります。それが哲学なのです」
だが今や人間の概念そのものが意味をなさなくなりつつある。真の自己などないのだから。人は、意味の場からもう一度〈自然〉へと出てゆく必要がある。意識の世界の外の、生老病死といった〈自然〉と向かい合う。〈そこ〉には、意味の場を超えた、自然(ピシュス)の哲学が開かれてあるのではないだろうか。
いやいやと、ハラリは言う。今や人類は生老病死を克服して、不死と至福と神性を獲得しつつある、ホモ・デウス(神なるヒト)なのだと。
7月27日、母が〈そこ〉へと還っていった。
白波打ち返すふるさとの海に包まれながら、不在を問いつつ、〈わたし〉という自己の幻想(虚構)のかなたを見やっている。――虚構を読み解くべく。
カントリー・ダイアリー 42 154号(2018-8-8)
世界の再魔術化
オーストラリアの先住民アボリジニの世界観をテーマに2004年に書いた『夢見る力』(作品社)と同じ年に出版されていたものの、今年文庫化されてはじめて知った保苅実の『ラディカル・オーラル・ヒストリー――オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』(岩波現代文庫)。保苅はそこで、アボリジニのフィールドワークを通して、歴史とは何かを根源から問い直そうとしている。
「ダグラダ村のアボリジニ長老たちは、アメリカからケネディー大統領が、グリンジ・カントリーに来たっていうんです」と保苅は言い、そればかりかアボリジニは大地やドリーミング(祖先神)が語る物語を、神話的な象徴としてではなく、リアルな歴史的事実と考えていると。以下保苅の論点を追ってみる。
アボリジニの人々は、大地や石や河やドリーミングの語ることばに耳を傾け、それらの声を聞く。大地からドリーミングが生まれ、そこから法や、正しい道や、歴史が生まれてくる。ドリーミングは世界を創造するだけでなく、こうして世界を維持してもいる。人間が存在しているのは、世界が生きていて、その倫理性を維持しているからである。法は(人間が)変えることのできないものとしてある。
「アボリジニの法は、あの丘だし、この川だ。丘や川を移動させることはできない。だから、法を変更してはいけないんだ」
そうした世界に住んでいる人々にとっては、それらこそが歴史的事実であり、歴史なのである。それらを神話的なメタファーとしてではなく、リアルな歴史として受け入れてゆく歴史の在り方を問おうというのである。
歴史的真実は一般に歴史家が接近して記述することが可能な「外的な」客観的存在であると想定されているが、これは錯覚であるとオーストラリアの思想史研究家のテッサ・モーリス・スズキは言う。ただし、こうした錯覚が生まれるのは、歴史的真実が存在しないからではなく、歴史的真実が無尽蔵にあるからなのであると。
アボリジニの人々は、時間的次元よりも空間的次元を基盤とした歴史観を構成している。彼らは、今ここという時間に暮らし、歴史は常にいまここにあるものなのである。
時間のない歴史があり、カントリー(土地)や石の語る歴史がある。
歴史を時間の呪縛から解放し、今を生きる空間的な歴史実践という、個別の経験として蘇らせることだと、この本の解説者本橋哲也は言う。歴史は生きられる経験なのである。
歴史は過去に起きた出来事を、誰かが現在において語ることではじめて「歴史」となる。言い換えれば、歴史そのものというのは実体としては存在しえず、物語(?がりの網目による関係性)としてのみ成立している。
そして大半のアボリジニ・コミュニティにとって、土地――「カントリー」――は、「不動産」ではなく、むしろ彼らの生存とアイデンティティのまさに基盤なのである。この意味で、彼らにとって、土地から引き離されることは、人間の実存を可能にするすべてを失うことを意味している。そしてそのすべてがキャップテン・クック(英国からの移民)によって奪い去られたのである。
カントリーには大地や石や河やドリーミングが語る歴史がある。世界の再魔術化――精霊とか神様とかの世界をもう一回リアルに引き受けることが歴史実践において問われていると保苅は言う。
石や丘や川に名前を付けることで、それは霊的存在となり、肌に模様を描くことで人はドリーミング(精霊)をたずさえた存在となる。わたしたちは、そもそも、世界を魔術としてとらえている。ことばは、符号としてではなく、言霊としてあったものだ。模様も、文化も。文明もまたそうだ。魔術(関係性の物語)を生きているのがわたしたちなのだ。
「カントリーをアボリジニの教師たちと何日もかけて歩きまわることで、わたしは世界に聞き耳をたてることを学びました。かれらは、聞き耳をたて、観察し、わたしの周囲で何が起こっているのかに気づくように教育してくれました。この多感覚的に開いた注意深さを学びはじめると、その人物は、人間以外の生ける世界と倫理的な対話を始めることができるようになります。……多感覚的に注意深くあることで、人間同士が、そして人間と非-人間とが、お互いに〈聞き入る〉ようにならなければならないのです」――デボラ・ローズ『生命の大地――アボリジニ文化とエコロジー』(保苅実訳)
多感覚的に注意深くあることで、互いに〈聞き入っ〉て、霊性と向き合わなければ、アボリジニの歴史を書くことはできないだろう。
そして、それら大地から現わし出されてきたドリーミングの法とは、人の法ではなく、まさにピシュス(自然)の、ピシュスと人との関係性の法であって、その地平に世界の再魔術化(人間以外の生ける世界との倫理的な対話の物語)はあり、そこにおいて語られる歴史をこそということではないだろうか。ぼく自身、ドリーミングのそれらを、彼らにとってまぎれもないリアリティでありながらも、歴史とてして見る視点をこれまで持たなかった。今ここに歴史化してこそ、世界の変容に切り込むことができるというもの。保苅は本書の出版と同時にオーストラリアで他界してしまい、残念ながらその後の論の展開を見ることはできない。彼がオーストラリアの赤茶けた大地に撒いた花のひとひらを拾ってみた。
この2月に旅立っていった石牟礼道子さんは、水俣という豊饒な生命の場に〈聞き入り〉、そしていのちを奪い取られた水俣病の人々の魂に〈聞き入る〉ことによって、その魂の声を開き示して見せたのだ。聞き入ることのできた人である。
そこには、モノではなく、霊的な存在(関係、物語)こそがある。
「秋の深まる夕暮れには、風が色を変えるのが目に見える。すすきの穂波が不知火海の照り返しを浴びて、金色に透けるような日のことである。……〈コーン〉とひと声、ためしに鳴いてみる。すると、まるで本性は狐の仔である自分が、たまさかの人の子に化生していたように思われたのである。足元の野菊に残った陽の色を吹き消すように、さびしい風がひろびろと渡ってゆくのはそんな時である。顔を上げると、不知火海のむこう、天草の島にかかる落日はもう茱萸色に滲んでいる。一吹きで人の子に戻されたわたしは、一目散に逃げ帰るのだった」
「海が汚染されるということは、環境問題にとどまるものではない。それは太古からの命が連なるところ、数限りない生類と同化したご先祖さまの魂のよりどころが破壊されるということであり、わたしたちの魂が還りゆくところを失うということである」
――石牟礼道子『魂の秘境から』
そして「現代史の遺跡としての水俣はまだ息をしている」と。
カントリー・ダイアリー 41 153号(2018-6-10)
世界を切り裂くアート
左から秋山祐徳太子 ヨシダヨシエ(美術評論家) おおえ 加藤好弘
1960年代半ばから半世紀にわたって「ゼロ次元」の旗印を掲げて果敢に走り続けてきた加藤好弘がこの2月9日に旅立っていったとの手紙が3月16日に届いた。81歳。故人の遺志で一ヶ月間、その報は伏せられていたよし。それもまた彼の儀式の一つだろうか。
昨年末には「『故郷名古屋からゼロ次元が出現し、今アジアンタリズムが宣言される』ゼロ次元 加藤好弘 愛知芸術文化センター(2017-11-18)」との元気な手紙をもらったばかりだったが……。
はじめてゼロ次元の加藤に会ったのは、ぼくが大学を出た年の64年9月、ゼロ次元主催の愛知県美術館で開かれた「日本超芸術見本市」に参加したときだった。
「ここには『読売アンパン』で毎年出会う九州派一揆野人櫻井孝身、仙台の伝説聖狂人ダダカン、古瀬戸窯に家出中学女子を匿い少女連を縄電車で東山戦没者碑まで誘導するゲゲゲの鬼太郎のモデルだったアサイマスオ、また、後にアングラ映像作家になり、ニューヨークから帰って『いなばの白うさぎ』を映像化するおおえまさのり、明和高校の後輩で万博破壊共闘派京都大学大会にサーカス参加した水上旬ら、異界を彷徨う芸人達が集結していた。戦没公園石段上の広場でワニ鮫の裸身男達が寝体舟に並ぶ上を白うさぎ娘が走り飛んだ。これがゼロ次元十八番の儀式『いなばの白うさぎ』が真夜中の東山に降臨した奇跡の瞬間だった」(加藤好弘――上記書面より)
この年の一月にゼロ次元は出発している。
「多摩美の先輩川口弘太郎が『ゼロ次元』と名付けたグループを行動派に変換して、岩田・小岩と加藤の三羽烏が中学校時代を再現して激突し、1964年1月にゼロ次元主催の『狂気ナンセンス展』が愛知県美術館で狼煙をあげた。栄町交差点から美術館めがけて十数名が一列に道路に倒れ込み、はいつくばってホフク前進する、人間オブジェ化による正月舞台への都市強姦儀式の登場である」(同上)とある。
60年代中期はアヴァンギャルドと呼ばれる前衛芸術運動が世界的に立ち現れてきた時代だった。価値体系の全的変容を求めて、模索と実験が果敢に行われていた。ニューヨークでは現代音楽のジョン・ケージや小野洋子、アヴァンギャルド・アートの草間弥生などなど。日本でも高松次郎、赤瀬川源平、中西夏之によるハイ・レッド・センターやネオダダの活動、足立正生の映画『鎖陰』などなど。そして天井桟敷や状況劇場などなどの、嵐のような胎動があった。そして政治的局面においても、体制に異議申し立てをする安保闘争や学園闘争が吹き荒れていた。ゼロ次元もまた、そうした状況の中での出来事だった。
ぼくが再び加藤に出会うのは、65年から69年初頭までの、ニューヨークでの映画製作活動の後、日本に帰国してからのことである。ニューヨーク滞在中に訪ねてきた映像作家で評論家の金坂健二を通して、ゼロ次元に関わるようになった。ゼロ次元は70年安保闘争と大阪万博への「万博破壊共闘」になだれ込もうとしていた。その中で加藤はゼロ次元儀式の集大成ともいえる映画『いなばの白うさぎ』の撮影に取り掛かっていて、その撮影を頼まれたのだった。弁慶や牛若丸などの奇天烈な立像が並んだ名古屋の公園や九十九里浜、東京の泡ぶくぶくの銭湯などなど、ゼロ次元の儀式の現場を一緒に回って撮影したのだった。カメラを覗かず、カメラを抱えたまま、這いつくばり飛び跳ねするそれら儀式と一体となって、かれらの身体を舐めるようにして、カメラを回しつづけた。
69年8月、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)やゼロ次元などの呼びかけに呼応して大阪城公園で開かれた「万博破壊共闘派」の「反博」では、ぼくがアメリカで制作してきたばかりの、ケネディーの暗殺から60年代後半の若者たちによる魂を解き開くサイケデリック革命の嵐、そしてベトナム戦争へとなだれ込む60年代アメリカの一大スペクトルな、16ミリ映写機6台によるマルチプロジェクション映画を公園の巨大なスクリーンに投影した。
一方万博会場では岡本太郎の太陽の塔に登り、塔を占拠して、塔室の上から一人の男が糞尿を撒き散らし、その下を独り、岡本太郎が「殺すな」と筆書きした(そのロゴがべ平連がワシントン・ポスト紙にベトナム反戦の意見広告をするために岡本太郎によって書かれたものだとは、本誌前号で知った)白い褌をつけて、走りながら風に流される細身の男がいた。それがダダカン(ダダイスト・カン)こと糸井貫二。当年95歳でいまだ元気だ。何年か前に東京で回顧展とシンポジュウムがあり、トークに招かれたが、その軌跡は圧巻だ。彼ほど身をもって己のエロスの極致を歩いたアーティストを知らない。今も彼からは、そのエロスに満ち溢れたメールアートが送られてくる。
そして京大の学生運動の拠点となっていた西部講堂での、裸身を賭けた「万博破壊共闘派」の儀式が「猥褻物陳列罪」に問われ、告陰の末永蒼生、ビタミンアートの小山哲男、新宿少年団の秋山祐徳太子などと共に加藤は目黒署に逮捕された。生身のアートが真正面から国家に挑戦し、弾圧を受けた瞬間だった。万博を前に反体制的で「『国辱的』なアングラ芸術を一掃せよ、と自民党筋から圧力があった」(『現代の眼』)と美術評論家の針生一郎は記している。
69年当時、サイケデリック・ドラッグは魂を解き開く大きな可能性を持ったものとして認められていて、加藤にサイケデリック・ドラッグの潮流を紹介し、その後彼は大きく変容してゆくことになる。そのサイケデリック・ドラッグもまた万博がらみで、万博を目指して国外から大量に持ち込まれる恐れがあるとして、70年初頭に急遽禁止薬物に指定された。魂を解き開くことを恐れた体制による心の弾圧。それは50年後の今もつづいている。そして71年、半年のインドへの旅から帰ってきたぼくは、加藤にインドへの引導を渡し、彼は「夢タントラ学派」を宣して、インドのタントラの世界に狂気してゆくことになる。魂が溶けてゆくエロスの極致をそこに見たからにちがいない。
その後ニューヨークへ転進して、夢タントラ儀式の絵をもって売り込もうとしたが、果たせず帰国。そして近年は「ゼロ次元儀式映像を持って黒ダライ児氏(『肉体のアナーキズム』)とよく韓国の美術館にアジア問題について対話しに行」くようになり、「アジアンタリズム宣言」のアジテイション巡礼を夢見ていた。「加藤は80才になり、岩田は今年82才で鬼籍に入つた。これからが人生なのだ。やり残したことがいっぱいあって、アジアンタリズムでシルクロードをアジテイション巡礼しなくては」(同上)。
そう、ゼロ次元とは何だったのか。様式がありながら、いかなるアートにも文化にもからめとられない。それらから見放されている。アート化されない裸体の儀式をもって、巨大な風車に立ち向かったドンキホーテだったのだろうか。
いや彼は、とてもよく世界を見ている人でもあった。ただそれらがことば化されるとき、それらは儀式用語となって、彼独自の世界観を形成する。そしてアジテイションが先行してゆく。そのアジテイションが彼なのだといえば彼なのである。他界してなお、見果てぬ夢がある。その夢とは――。
あの世こそ、絶大な儀式の宝庫であるにちがいない。すべてが一瞬にしてエロスの極致に化して夢が成就することだろう。
世にアンダーグラウンドの消失しつつある。ゼロ次元から50年、今、世界を切り裂くアートのありやなしやと。
ゼロ次元を取り上げた本に、黒ダライ児『肉体のアナーキズム-1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』grambooks(2010年 )、平田実『ゼロ次元 -加藤好弘と60年代』河出書房新社(2006年)などがある。
カントリー・ダイアリー 40 152号(2018-4-10)
彼岸に渡る
●白寿を前にして入院した母は、悪性リンパ腫でステージWということだった。抗がん剤の効きやすい癌だというものの、その副作用を考えると、高齢の母には投与することに躊躇するものがあった。母に抗がん剤治療をするかどうか尋ねると、躊躇なく「ややこしいものができたんやな。やらんと治らんから、がんばります」と。98歳にして「がんばります」としっかりとした意思をもって言うことができるとは、すごいなと感心する他ない。そこには、生への執着心や死への不安感などは感じられない。今やるべきことをやるといういのちの元気力なのだと思われる。
●母の介護を前にして、いのちとは何なんだろうかと改めて考え込んでしまう。介護の現場で多くの人たちがそうした時間を持っているにちがいない。橋田壽賀子が『安楽死で死なせて下さい』という本を出して投げかけた問いは、己自身の介護される現場を幻視するとき、選び取られるべく選び取られるものであるように思える。自らの尊厳を守り、また自らをも、また介護する他者をも介護地獄に落とさぬために、安楽死という選択は、あり得る、あり得なければとも思う。そして自死も。西部邁は家族に介護の面倒をかけたくないと自死を選びとった。
だが人間としての尊厳を掲げて、認知症になったら、あるいは介護が必要になったらいのちは終わりですというわけにはいかないのでは。社会(労働力としての市場価値)の役に立たない人はすべて安楽死や自死に追い込まれてしまいそうである。あなたはそこにいるだけで価値があるといういのちの尊厳とのすり合わせはどうなるのだろうか。生は、自ら選び取ることができず、与えられ、その生の中で〈わたし〉という個的我を幻想してゆき、やがて人間の尊厳を掲げて、その個我の喪失にうろたえ、あるいはその個体の消去の自由にならないことに苦しみする。
そしてこれらの生の不条理を乗り越えようと、高度先進医療や遺伝子の改変による不死への術策が、医療の未来としてますます渇望されるようになってきている。
●だがそうなのだろうか。自然と人と死者たちとの結び合わされた大きないのちの環の中にある〈いのち〉を観ることの中にこそ、いのちの鍵はあるのではないだろうか。自然と人と死者たちとのいのちの循環の輪があるところでは、彼岸に渡るその時まで、不条理に苛まれることなくその生を送ってゆけるのではないだろうか。
何十億年という大きな生命連鎖の中にいのちはあり、その中でいのちは授けられ、育まれて、過去の幾多の無数の生者(死者)と今ある幾多の無数の生者たちとの大いなる環の中にあって、幾多の無数の未来の生者たちへとつながっている。そうした大いなる関連の中にあるいのちを見つめ、生きてゆくことが問われているように思う。いまここに死者も未来の生者も関連して、全世界がいまここにある。そうした〈いのち〉だ。そこにこそ成仏があるのではなかろうか。認知だろうが、認知症だろうが関係ない。そうした大いなる〈いのち〉の環の中にいてこそ大安心なのである。この刹那に永遠を生きることこそ成仏なのである。
浄土宗系の妙好人、下駄職人の浅原才一は言う、阿弥陀が下駄を削っていると。あの世をいまここに生きているという感得。三千大世界を内包した今の感得。
あるいは存在の不可思議光仏(アミターバ、阿弥陀如来)の光の前で、かつて人はその光の糸に導かれて往生していった。往生してゆくことができた。救いとられてゆくのである。それは究極のエロスであることだろう。衆生本来仏なりである。
インドのそこでは、生とは輪廻からの解放(ムクティ)に向かって歩んでゆくものとされている。死の瞬間こそ、個我を超えて、心の本性へと溶けいるその時である。一(非二)なる、主客未分のところへと――である。
●それ(主客未分のところ)は哲学の最も根源的問題として浮上しつつある領域でもある。西田哲学の研究者池田善昭は福岡伸一との対話で次のように述べている。
「ヘラクレイトスなどのピュシス(自然)的な立場から、人間の理性に合致するもの、隠れなく〈見えているもの〉の原型・模範をのみ探求するロゴスの立場へと哲学が転換するのが、ソクラテス、プラトンの時代です。
そう、主客未分のところでこそリアリティはつかみとられるのだと。
生命は、モノとしてではなく、破壊と創造の時間をその内に内包する、包み包まれつつ、円環する流れとしてある。どこへ行くのでもない。主客未分のところで(ただ今の永遠の中で)躍動している。
そうしたピシュスの内にある、アボリジニのいのちの場、ネイティブ・アメリカンのいのちの場、インドの源境に在るいのちの場、母の生きてきたいのちの場……。
そうしたいのちの場をわたしたち人類は見失って久しい、ソクラテスの時代から。資本主義に押しつぶされ、科学に惑わされ、核に脅され、公害に悩まされ、AIにおぼれ、制御されて――。
わたしたちは今、ピュシス(自然)の場に立ち返って、いのちを、わたしたち自身を、わたしたち人類を振り返って見るときなのではなかろうか。
満天の星々との永遠の時の対話の中に流れゆくもの、母なるものに包まれてゆく潮騒の音の内にあるもの、野の一輪の花に宿る宇宙にひろがりゆくもの、そして……。宇宙を包み込む見えざる神話に耳を傾け、死者たちと会話を楽しみ、あの世をこころの内にする。
ひとつの精神が生き、ひとつの精神の宇宙が生きられ、ひとつの精神が花咲き、ひとつの精神が一(いつ)の精神となって、超絶の精神を生きてゆく。永遠から永遠へと。
時空はわたしの内に包み込まれているのだから、すべてが在る。それぞれのいのちには全宇宙が包み込まれて在る。全存在がそこにある。
そこには宇宙が宿り、星々が、大地が、ピシュスが、遥かなる神話の夢見が宿っている。
およそすべての人間の欲望は、大なり小なり自分の閉じられた非連続性を超えようとする契機をもっており、彼岸への超越こそは欲望のエロスの最たるものであるはずだ。主客未分のところ、彼岸への超越性においてこの生を切り開くことだ。解脱(彼岸)を内包した生をこそ――。そこに生の不条理を超え、世界を開く道があると思える。
無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 歌うも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
此の時何をか求むべき 寂滅現前する故に
当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり
――白隠禅師 『坐禅和讃』
母の読経に、色即是空、空即是色とある。
それは超絶のエロスへと導く方程式の一つである。そこからは華厳経の存在の相入相即性や関係生起性(縁起)、あるいは理趣経の生の絶対肯定の世界観などが導き出されてくる。
主客未分のところへと旅してみよう。〈わたし〉の物語を紡ぎ出すために――。
●そう、わたしの、一つの物語は
あの世とこの世を不二にして生きること――だろうか。
そもそも人は、ないもの(幻想)を遊びくらしている。
あの世とこの世もまた
ないものの内に生起して在るもの。
ないあの世とないこの世を不二にして生きて
ないものに生かされているのが人なのだ。
この世とあの世のないものをとっぱらって、何のある。
ないものをとっぱらった世界とは
在るがままの自然、ピシュスということだろうか。
ただただに、在ることの神秘の前に立つ――。
あの世もこの世も溶かし去られた
ただただに、在ることの不二の神秘(不可思議な大宇宙に生き死ぬ不思議)がある――ただただに。
今から今へと――。往くところなどどこにもない。
●問がある――そうした我が身を支える場(共同体、コミュニティ)はどこに、どのようにしてあるのだろうか、いかにつくり出しゆけるのだろうか。かつては価値を共有する家族や地域共同体があり、講があり、あるいは宗教的グループがありしていたけれども、それらが崩壊してしまった今、支える場はどのようにしてつくり出してゆくことが可能なのだろうか。
まずは生の場を、死を内包した、生き死ぬ不思議の場と再認識し直すことだろう。その上で、生の場をつくり出してゆくことだ。生き死ぬ不思議を生き死ぬ場。もちろんそれはわたしの中だけで完結できるものではなく、わたしたちは共に暮らしいるのだから、より大きな生き死ぬ不思議を生き死ぬ場の中において、それらとの関係の中で、成しうることである。生き死ぬ不思議を生き死ぬ場を巡る環をつくり出してゆくことだろう。
カントリー・ダイアリー 39 (2018-2-1)
いのちの場
昨年11月末、98歳で独り暮らしをしていた母が、お腹が痛いといって緊急入院し、帰省している。倒れる前日まで元気そのもので、人形作りの仕事や調理や畑のことをこなしていたのだったが……。
近代化の波に乗ることなく、小さな地域の中で、昔ながらの手作りの仕事、そして神仏や死者たちと共に生きてきた母。それが母の〈いのち〉の場だった。
母は、この地以外のどこかに行きたいという思いを持つこともなく暮らしてきた。そんな母を支えていたものの一つが「お聖天さん」とよばれる聖天信仰だった。インドの福財を産むといわれる長い鼻をもつ像の顔をしたガネシャ神の信仰が日本に入って、長い像の鼻が大根に変わり、二本の大根がその象徴となっている。そのお聖天さんをこの地に興した人が、いろいろと占って神助けをする人で、その人に導かれるようにして聖天信仰に入っていったようである。ぼくが子どもの頃は、小高い山の上にあったものが、信者の高齢化もあって、山の麓に降りてきて、そこに現在のお聖天さんはある。母が二十分ほども歩けば出かけられるところで、野辺のちょうどいい散歩道でもある。
そこを少し入った奥に薬師堂があり、その向かいによく母が参るお地蔵さんや弘法大師を祀る大師堂がある。その脇に四国八十八ヶ所のお四国さんのミニ巡礼コースへと登る道がある。登らずに奥へ小路を入ってゆくと、大江家の墓所に出る。それらをぐるっと回って丘を下ってくると、稲田の広がりの中に大きな円形の古墳があり、田んぼの水路沿いに野を横切ってくると我が家のある往還に出る。
隣近所に出かけてお喋りをしたり、集落の社交の場に出かけることもなく、この巡礼コースの一巡りの世界が母の世界であった。一巡り四十分くらいであろうか。それで十分、欠けることなく満たされていたのだった。そして家には人形、文楽の人形浄瑠璃芝居の首(かしら)作りの仕事があった。人形作りの他にも、郷土芸能の獅子舞で使う獅子なども作っていて、父が元気であったころから、それはほとんど母の仕事だったから、父亡き後も得意満面でやっていた。何とも素早いのである。ぼくらこどもたちがたまに手伝うと、早く早くと急き立てられるのだった。料理や掃除といった家事よりも仕事が好きで、一日のほとんどを仕事場に坐り込んでいる。居眠りも仕事場だ。
集落の自然と人との関係の場も戦後あっという間に消え去ってゆき、〈いのち〉の生きる場が失われていった。台所は薪の竈で、焚き付けの松葉は裏山に集めに行き、薪は製材所の端材を買ったりしていた。水は井戸からバケツで汲み上げ、棕櫚や炭や砂や小石を入れた大きな水甕でろ過して、飲み水にしていた。離れたところにある風呂へは、やがて手押しポンプで送るようになり、子どもたちが薪を焚いて、灯油ランプの五右衛門風呂に入ったものだった。戦後は裏山の奥にある畑まで大八車を押して麦や芋を作りに出かけ、サツマイモの蔓も食べたりして、サツマイモの蔓が盗まれるということもあった。
そんな戦後が次第に終わってゆくと共に、経済成長の波の中で、世界は、何かを失いながら、激しく変わっていった。小さな集落の街道筋にあったふいごをゴーと吹いてトッテンカントッテンカンと鍬や鎌を叩いていた鍛冶屋や朝早くからその日の豆腐を作っていた豆腐屋、竹に練り物を巻き付けて炭の上で転がしながら焼いていた竹輪屋、番傘を張って往還の向こうの小さな川辺で傘を並べて乾かしていた傘屋、粘土を捏ねて平瓦や鬼瓦を作って大きな土の窯で瓦を焼いていた瓦屋、小学校の門の横で肉桂の根やその肉桂で作ったニッキ水や芋飴などを売っていた駄菓子屋、荒物なら何でもあった雑貨屋、食料品を商う八百屋、刈り取った麻から繊維をとる麻の加工所、その横にあった村役場、大きな煙突のある風呂屋、我が家も建ててもらった大工屋などなどがあっという間に姿を消し、残っているものは一つもない。歩いてゆけるところに日々の食材を買う食料品店さえない。家の前の往還に沿って流れて、田を潤し、足踏みの汲み上げ用の水車のあった川も、暗渠となってなくなってしまった。残ったのは我が家の前の特定郵便局と我が家の裏の小学校と我が家――江戸の終わりころから郷土玩具や人形浄瑠璃芝居の首を作ってきて、今も昔々の手作りのままに、作りつづけている。
彼女にとって、生きる場はここより他には考えることができず、毎日毎日何よりも先にご祖先さまに祀るご飯を作って差し上げ、下げてきたご飯はいただき、お茶は流しに流してしまうのではなく、餓鬼にと必ず庭にまいてやる。それらの死者に守られて生きている。まさにその確信の内に生きている。
20年前父が亡くなり、一人ぽつんと父の仕事場に座り込んでいた母は、がぜんと父の顔の首を彫りはじめたのだった。それまではあくまで父の作った首をなぞるもので、それも父に手を入れてもらって完成させていたにすぎなかった。それに文楽人形は、役のそれぞれに娘とか若男とか決まったパターンがあり、一定の型が決まっていて、それらの約束ごとの内で首を作るものだった。ところが母は、一から新たに、これまでになかった首、父の顔の文楽人形の首を作ろうと、ただひたすら、ひたすらに彫りつづけたのだった。そして母は「首作りで分からんことがあると、仏壇の前に坐って、おじいちゃんどうしたらええんやと尋ねるんや」という。そして自分もまた父や祖先たちの祖霊の下に往き、そして祖霊となることに何の疑いもない。それは疑いもなくそうなのだ。そして早く向こうへ往きたいものだとも。
個の中にいのちを見てきた近代のわたしたちは、いのちの終焉という不条理に向かい合わざるを得ないけれども、母は大安心なのである。〈いのち〉は自然と人と死者たちとの関係の中に存在しているものだったのだと母の生きてきた〈いのち〉の場を見つめ返しながら、改めて思い至る。その関係性を断ち切って個人の確立を目指してきた近代は、個の孤絶の中で、生きる場を失っていてしまい、満たされることなく彷徨い、ただただ興じている。そして死を諒解できないでいる。わたしたちは大きなものを、〈いのち〉を失ってしまったのだ。そう思えてしまう。
〈いのち〉とは関係であり、関係の中に〈いのち〉がある。自然と人と死者たちとの関係の中に生きて、日常の日々の刹那の中に、過去も未来も、死後の生もあって、刹那の中で永遠を生きているといった、近代とは外れた生き方をして来た母の方にこそ〈いのち〉があったのだと、今回の介護帰省で思い知ったのだった。あの世は常にここ(母の内)にあるのだから何の心配もない、不条理もない。
そしてまもなく九十九の白寿の春を迎える。百から一を引くと白だから白寿。
「〈いのち〉は自然や神仏を含む他者との関係のなかに存在していた。……伝統思想にはすべての〈いのち〉は一番奥では結び合っている、つながりながら存在しているという発想があった。……生から死への飛躍はこの個体性の喪失であり、結び合う世界への回帰だ……そこへの回帰は成仏である」――内山節『いのちの場所』(岩波書店)
今や母の存在そのものが、〈いのち〉の場の変容を問うている。
カントリー・ダイアリー38 わたしたちが必要としている革命 150号(2017-11-10)
池には、小舟を吊り下げたような、赤紫の釣り舟草が咲き乱れ、空には秋の陽をいっぱいに浴びて、ヒラヒラと翼をかがやかせて秋茜が群れ飛んでいる。
だが、人の心ばかりは、ただただ騒いでいる。ことばを投げ合い、核を投げ合い、戦力を誇示し合っている。
人類の歴史を見ると、認知革命を手にした人類の妄想の中で、虚構をめぐって争い合う姿ばかりがある。
わたしたちはまこと、妄想のただ中にあるのだから、互いにその妄想の中から抜け出したところで向かい合うしか道はないと思われる。だがこの己の虚構を見ることの何と困難なことか。今や、その虚構こそが〈わたし〉なのだから。
それ故あるがままの〈わたし〉は、己の死、虚構の〈わたし〉の死を前にしてしかその姿を現さないのかもしれない。
再び『チベットの死者の書』(拙訳 講談社)を紐解いてみる時かもしれない。
そこにあるのは、妄想の旅路の中にあるわたしたち自身の姿だ。『チベットの死者の書』は、死後、魂がさまよう、死の瞬間から再びこの世に誕生してくるまでの49日間の旅路において、わたしたちがいかにマーヤ(幻想)に囚われているか、またこの世においてもいかにマーヤの中で暮らしているかを明らかにしようとする。そして幻想としての〈わたし〉の死こそが、真如(あるがまま)を見る鍵だとそれはいう。
「生と死を理解する鍵は、もっとも奥深くにある〈心の本性〉に立ち返ることです。そしてそれが死の瞬間に起こるのです」――ソギャル・リンポチェ(『チベットの生と死の書』講談社)
死の瞬間、人は最も根源的な智慧の光である、眩しく透けた発光、クリヤーライト(光明)に溶かしされられてゆくとそれはいう。主体も客体もなく、非一で無境界な〈空〉そのものの光へと。だがほとんどの人は〈わたし〉なるものの喪失という死への恐怖から失神してしまい、このクリヤーライトを認識できず、それに溶けいってゆくことができないと。そして気絶から目覚めると、バルド(死後49日間の魂の旅)がはじまる。
「〈閻魔大王〉の神群が、このバルドを照らしにやってくるであろう。その大きさは、あるもの天空に匹敵し、中間のものは須弥山に、小さなものは人間の十八倍もある。歯をむき出し、ガラス質の目をして、髪は頭の上で結び、大きな腹をして腰は細く、行為(業、カルマ)の記録書を手に持ち、『打て!斬り殺せ!』などの言葉を発し、人間の脳をなめ、血を飲み、死体から頭を引き裂き、心臓を引き抜きながらやってくるであろう」
「そのような思考の形が現れてくる時、汝は怯え、恐怖してはならない。今の汝の体は
業(行為の集積)の性癖の心霊だけでつくられた体である。そのために汝は斬り殺され、さらに滅多切りにされようとも死ぬことはない。なぜなら、汝の体は本当に〈空〉のものである。汝は恐れる必要はない。
〈死の神〉の体もまた、汝自身の知性の発光からの放射物である。かれらは物質で構成されてはいない。〈空〉は〈空〉を傷つけることはできない。外面的に〈平和のそして忿怒の神々〉、〈血を飲んでいる神々〉、〈色々な顔をつけた神々〉、〈虹の光〉、〈死の神〉などの恐怖させる姿は、汝自身の知性の構造の放射物である以上には、存在しない」
平和な様相をした神々――大日如来や阿弥陀仏、憤怒の形相をしたブッダたちもまた、わたしたち自身の知性の構造の放射物である以上には存在せず、またわたしたちが輪廻転生している六つの世界――天上界・阿修羅界・人間界・畜生界・餓鬼界・地獄界もまたわたしたち自身の知性の構造の放射物であり、それ以上には存在しないものだと。わたしたちは幻想としての〈わたし〉を生きており、幻想と幻想との闘いの中で生を燃やしている。
「仏教の革命的な洞察は、〈生と死は、他でもない、心の中に存在する〉ということです」――ソギャル・リンポチェ(『チベットの生と死の書』)
●とは言っても、死後の世界を旅することは生きている間はできっこない。でも、それらの追体験を可能にする方法がある。
アメリカの精神医学者スタニスラフ・グロフは、インドのヨーガの呼吸法である〈バストリカ(ふいご呼吸)〉に注目した。この「ハー、ハー」とふいごを吹くように、浅くて速い過呼吸を10分から30分くらい激しく繰り返していると、体が死後硬直のような状態になってくる。
死に際の人が酸素を求めて喘ぐのに似て、一種の酸素飽和状態がかもし出され、頭が痺れるような、あるいは透明になる感覚が広がってくると共に、体全体が自然に引きつり、硬直してくる。そしてこれをさらに押し進めてゆくと、魂が離脱したような感覚になり、様々な〈ヴィジョン(幻影の想起)〉を体験するようになる。
グロフは、この呼吸法を〈ホロトロピック・ブリージング(全的呼吸法)〉と名づけ、臨死体験を促そうとする。
彼が注目したのが、赤ん坊が狭くて暗い産道を通って生まれ出てきて、酸素を求めて激しく泣くプロセスだ。分娩に際して、赤ん坊は胎内から外界へと押し出されるばかりでなく、臍から与えられていた酸素を肺呼吸に切替えねばならず、赤ん坊はそこで、一時的な酸素欠乏状態に伴う〈死〉を経験している。
そしてこの誕生の過程を逆行することで、分娩前後の〈死〉を通って、胎児の夢見の世界に分け入り、胎児の進化過程に見られるような、単細胞からアミーバや魚、爬虫類から人類に至るまでの、幾億年の〈ヴィジョン〉を想い起こし、さらにはもっと霊的、神話的次元まで遡ってゆくことができると。
このプロセスをより有効に進めるために、呼吸を促したり、魂の中で起こっていることを深化させるための喚起的な音楽が併用され、回を重ねる度に、意識の様々な層のヴィジョンが発見されてゆくことになる。このワークは日本でも受けることができるが、しっかりとしたサポートのあるワークショップで体験することだ。
●また社会的な場において、互いの正義という虚妄の対立を乗り超えようとするこんな方法論がある。心理学者アーノルド・ミンデルによって提唱された方法論だ。
『紛争の心理学』(講談社現代新書)においてミンデルは「グループ間の交渉が失敗に終わる最も一般的な理由のひとつは、大変多くの人々が怒りを怖れていることである。わたしたちは、怒りを喚起する議題や隠れたメッセージを扱えず、あるいは扱おうとしないのである。すると、感情は覆い隠されてしまう。……集団の抱える問題の渦中にとどまり、その成り行きに全面的に関わっていってほしい。……衝突のワークをやり抜くと、互いの差異を認めあう平和な状況がもたらされる。……本当は誰にも罪がないこと、みんなが一緒に目覚める必要があることに気づく」のだ。紛争の心理学の実践ワークであるワールドワークの目的は「偏見を明らかにして、それを批判したり、あるいはそれと闘ったりすることではない。自覚を高め、その力を活用して、コミュニティを創り上げることが目的である。ある意味では、プロセスワークは対抗文化的かもしれない。ダブルシグナル(隠されたシグナル)の両側面に従うことで、主流派と非主流派の両者の文化的な硬直を乗り越えるのである」と。
そして紛争の中で、ホットスポット(集団における、攻撃、防御、闘い、高揚、エクスタシー、無気力、落ち込みなどのスポット)が立ち現れてくる瞬間があると言う。相対立する意見の境界が開かれて、意見の対立衝突の果てに現れるホットスポットの中でそれだと合意されることが起こる。
「すべての衝突、差異、問題、抑圧、偏見、無自覚、そして力の闘争(わたしたちを分裂させているまさにそのテーマ自体)を自覚するまで苦しんだとき、それこそが私たちをひとつにする」のであり、「この新しい政治学は、ある力がいかに他を抑えつけているかを自覚するだけではない。衝突がいかに両者を変容させるかを見てゆくのである」。
そして最後にこう結んでいる。
「よりよい世界を創るために、タイムスピリット(時や場所の影響を受ける文化的なランク、立場、観点)に注意し、それらを前面に浮上させるのである。そのときあなたは、個人ワーク、人間関係のワーク、ワールドワークを一緒に行っている。トラブルに価値を認めるのだ。あるがままを受け入れてほしい。争いで平和を築くのである。そうすれば、傷つく人は少なくなるだろう。晴れの日や雨の日を楽しむのだ。そのとき自然が残りの仕事をする。
これが、わたしたちが必要としている革命である」
●わたしたちが必要としている革命の、その実践の一つがここにある。アイスランドの市民革命「鍋とフライパン革命」監督ミゲル・マルケス(2012年)をユーチューブで見た。https://youtu.be/BZxR1VbTVkg
2008年、経済危機に襲われたアイスランドでは、経済のみならず政治も崩壊し、あらゆる社会システムが機能しなくなったとき、大騒ぎして抗議したり、ポピュリズムに煽られることなく、次に何をやるかだと、市民が国会議事堂を鍋やフライパンを叩きながら取り囲んで憲法改正を要求し、こんにちの危機を招いている現在のシステムを根源から問い直して、草の根民主主義に基づく新しい価値観の憲法を制定するという市民革命を実現していったのだった。権力の集中を排して、一人ひとりがリーダーであり、一人ひとりが尊重される、実践的な民主主義をと、無作為に選ばれた市民が参加して新しい憲法を論議する場を用意。多数決ではなく、少数意見を聞くこと――平和な社会を作りたいなら、あなた自身が変わることだと。そして国民の手によって憲法を描いてみることに。
資源(自然)の収奪への猛省から、ボリビアとエクアドルの憲法を参考にして、自然はすべての命の源であり自然には固有の権利があること(風土主権)を明記し、議会においては、有権者の10%の人々が法案にノーと言えば国民投票にかけなければならず、国民の2%の合意があれば法案を議会で審議しなければならないなどなど。権力を分立し、金の流れを透明化し、情報を公開し、持続可能な経済へと転換して、公的利益に供する参加型の社会を形成し、軍隊を持たず、非武装非核地域として平和の提唱者であること……。
消費行動を変え、わたしたち自身が変わることだ。もはや今のシステムでは次の世代はないのだから。わたしたちがそれらを退場させる、それが筋というもの。わたしたちは〈気づき〉が必要だ、わたしたちが作っているという意識を持つこと。革命は起こせるわ、アイスランドでできたのだから。そして最後に「自由っていうのは人間の笑顔さ」と。
生命の源である母なる自然の法(秩序体系)に支えられてこそ、わたしたちはその生を咲かすことができる。一人ひとりが生の創造の只中を歩いてゆくことのできる社会のシステムの創出。破局に面している今日の世界システムを超え出てゆくヴィジョンがそこに見られる。世界の平和指数においてアイスランドは1位、かの軍事大国アメリカは103位。
世は、自ら国難を作り出しての自作自演の、大義なき衆議院の突然の解散・総選挙で大わらわである。保守改革の希望の党の出現で、民進党が解体。権力の奪い合い。こんなところに草の根民主主義なんてありはしない。すべて解体してもらいたいものだ。選挙結果は、この地球的な破局に、変容を拒んだ人々の、終わりのはじまり。「選挙だけでなく、哲学的に変えてゆかなくちゃ」とアイスランドの市民革命をになった一人はいう。人は、人のことだけ考えていたら絶滅するのはまちがいない。母なる自然(ピュシス)の法の内にある風土主権への道を真摯に探るときである。
衆議院選の翌朝、台風一過で晴れ上がる。降りに降って池のようになった田んぼの水抜き。田んぼが乾けば、いよいよ稲刈りだ。
カントリー・ダイアリー 37 魂の在り処
149号(2017-9-10)
日本の基層文化の映像を記録保存しつづけた民族文化映像研究所の故姫田忠義さんの奥さん、道子さんのスケッチ展がSさんの自宅であり、出かける。Sさんは、書家であり、和紙のクラフト作家でもあり、また服のデザインも手がけるクールな人だ。姫田さんの映画のタイトルを書したこともあり、またこの地で民映研の映画上映会も主宰していたことがある。そうした縁で姫田さんには、我が家の収穫祭に来ていただいたことがある。
道子さん、車椅子ながらお元気。阿波(徳島)の半田で行われていた漆掻き職人を道子さんがレポートした雑誌があった。わたしは阿波の鳴門に生まれながら漆掻きが半田で行われていたことを全く知らなかった。絵は道子さんの日常風景を写しとったもの。姫田さんの映像作品を観ながらお茶を頂き、姫田忠義対談集『野にありて目耳をすます』(はる書房)上下二巻を求めた。
そこに『草木虫魚の人類学』を著した岩田慶治さんとの、映画『越後奥三面――山に生かされた日々』(姫田忠義)を観ての対談が収録されていた。
「例えば庭に十二単衣の花が咲いたとか、小川に鮎の稚魚がいたとか、白鷺が来たとか、そういうことをひとつひとつ注意深くみつめていくと、確かに小宇宙の構造が見えてくるんですね。それは神様の誕生することのできる空間をみつけるということなんです。魚や鳥が神様とうわけではなくて、その場所が神様の場所なんですね」(岩田)と。
我が家の野の庭にシンギング・ストーンと名づけた大きな岩があり、エノキの巨木がそれを覆っている。その場に人は、スピリットといったものが、魂といったものが、あるいはカミといったものが息づいているのを感じてしまわざるをえない、そうしたものがそこにある。
スピリットの場、魂の場、カミの場――そここそはわたしの魂を支えてくれる時空、場であるように思われるのだから不思議である。
「足を焼く石畳、蒸し返る熱気、牛の群れ、牛糞の匂い、きらめく光、風にそよぎ返すバンヤン、路上の手押しポンプから溢れ出る水しぶき、天秤棒に担がれてゆくガンガの水、ジャスミンの花、衣を翻してゆく風、生命の息吹、混沌――超絶してゆく風景がそこにあった。
〈わたし〉は深く、〈わたし〉の心の原風景の中へと誘われていった。インドを鏡とすることによって、〈わたし〉の内に、〈わたし〉の故郷が蘇ってきたのだ。この生命の感触、この風、この光、この水、この混沌。そう、これこそは〈わたし〉の故郷、人というものの故郷、我が魂の故郷なのではないかと。
自然のあらゆるものがカミとして息づき、それらの様々なカミが互いの関係の中で互いを照らし合い、互いに円融(それぞれがそれぞれでありながら互いに他を含み合い)し合いながら、いのちを育んでいる。あらゆるものがそのあるがままに、条件づけられることなく愛され、育まれてゆく。生命が輝きながらほとばしり出てくる泉――そこは我が魂の故郷なのだった」
姫田さんにとって民映研の映画は、日本の基層文化を記録することにとどまらず、魂の在り処を追う記録でもあるように思える。
対談集には沖縄の祭祀を撮りつづけた写真家比嘉康雄さんとの、久高島のイザイホーを巡る対談もあった。1990年、もはや島の女たちが神女となる儀式イザイホーができなくなったとき、新しいやり方でやってはとの声があったものの、それでは違ったものになってしまうからと、できなくなったそれをそれとして受け入れていくことにしたと。新しい形で、形だけの儀式をしてゆくことになれば、かえって魂の在り処を失ってしまうことになるということなのだろう。
そして岩田さんは言う。「鳥が飛んでいると、鳥に聞くわけですね。あんたの魂は何って。鳥が答えて、私の魂は空よって。魚に、あんたの魂は何。私の魂は海だと。心はどうだっていうと、魂と自分のからだの関係だという風に考えてね。……道元は〈鳥、空を離れればたちまちに死す 魚 水を離れればたちまちに死す〉と言いますね。魚と水は一体だと。水からすれば魚が自分の体で、魚からすれば自分の魂は水だと。これはやっぱり、本当だと思うんですよ」
こどもの頃から海が好きだった。家の裏手の、れんげや菜の花の群れる平野を駆けて、石段を上がって丘に登ると、そこからは遙かに、松原が見え、その向こうに海が見えた。その海を見たくて、わたしはよく丘に登った。そして自転車に乗れるようになると、心をときめかして、海に会いにいった。
わたしにとって海といえばその海で、向かいに小さな飛び島が幾つかある、潮の速い鳴門海峡の、白波を返して騒海。
潮騒に耳を傾けながらそこに立っていると、わたしの心の内で海が歌い、唸り、いつの間にか、わたしは海と一つになってゆくのだった。わたしはあたかも命を育む暖かな、母なる母胎、母なる羊水の中にいるかのようであった。
そしてインドで出会った海。
「バスで行く道々には、マンゴや椰子やバナナの樹々が生い茂り、ゆったりと鳥が飛び交い、そしてベンガル湾に面したプーリーのそこは母なる海があった。
時はゆったりと流れ、わたしの内で、しだいに時間が止まっていった。刻一刻、永遠がわたしの内に自覚され、刻一刻の永遠が巡っていった。東の海から日が昇り、永遠の時の内に、夕日が西の海に落ちていった。
世界は、刻一刻姿を変えながら、刻一刻、永遠を生きているように思われてきた。昨日という時も、明日という時も消え失せて、今ここの一点に全世界が全存在を賭けて顕現していた。この一瞬にわたしの全存在が、この一瞬に全世界があると思えた。
昨日や明日への煩いが消えて、今ここにすっくと立つと、全世界がこの一瞬にすべてを賭けて現れ出てくるのだった。あるのは〈今ここ〉だけであった。今ここにすべてが、全世界があり、他には何もなかった。
時空が超越され、わたしは永遠を前にして立っていた。永遠とは〈限りない時(無限の時)〉ではなく、時空そのものを超越して、全き今ここに立つことであることが知られてきた」
また沖縄の碧い珊瑚礁の海に出会った時には、そこにわたしの魂のふるさと、わたしがやって来て、再び還ってゆく魂の原郷を見ないではいられなかった。
人は、魂としてわたしであり、魂の原郷を求めて、想いを巡らさずにはいられない。
自然はわたしたち生命が生まれ来たところであり、わたしたちの生命を育んできたところである。そして海こそは、わたしたち生命の原郷である。
そこにわたしたちは、わたしの原郷を見ながら、歓喜の内に、生命の懐へと巡り還ってゆく。そしてわたしたちは、そこにわたしの深い深い魂のふるさとを見ることになる。
わたしの魂は海へと、昇り来る太陽へと、そして夜には空に架かる星々へと広がりゆき、深い闇の中へと溶けてゆく。
わたしは海や太洋や宇宙の闇となり、かつまたその広大な宇宙をわたしの内に宿して、わたしとはそれらすべてであることに気づく。
それらすべてであるわたしがいる。
魂は、外を包み込んだ内的大宇宙。意識の内に展開する全包括的大宇宙そのものとしてある。そうある他ないと思われる。
その魂的事象として、わたしは生きている。
魂的事象に満ち満ちていた幼子のわたしは、やがて魂的事象の外にわたしを立て、そしてわたしの死を前にして、わたしを求めて泣く。人は永遠なるものから離脱して、永遠なるものを求めて泣く……。
戦後72年にして、いや増す世の喧騒は、人をしてますます魂的事象から解離させてゆく。
八ケ岳で訪問介護や終末期医療に取り組んでいる「きよさと診療所」の福富みずほさんが、スピリチュアルケアの重要性について語っていた。「未来や希望がなくなり、自分という存在が消えてしまう恐怖、セルフケアができなくなった自分の無価値観、というような自己存在意義の喪失」といったスピリチュアルペインへの取り組みだ。神や神話が無くなってしまった今日、患者に真摯に寄り添うことのすべてに増して、存在の空(実体のないこと)であることがひっくり返って、空に他ならない存在の全肯定的生(全一態にある生の姿)の感得こそ問われてこなければならないのではないかと思う。
1995年に八ケ岳の清里でリトリートを開いたことのあるベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン。彼は、ベトナム戦争時、行動する仏教徒として難民の保護やベトナム戦争終結の和平提案などに関わり、以後はフランスに僧院をもって活動している。彼はこう述べている。わたしの中には父や母や祖先が、そして宇宙のすべてがあって、それらが関連して生起していて、それらの総体がわたしを成しています。ですからわたしという個的実体はなく、生も死もなく、変容があるだけですと。
自衛隊の基地が造られて標的の島となろうとしている宮古、石垣島を追った、民俗学も講じる三上智恵監督の『標的の島』の上映がはじまっている。国家権力に翻弄され、虐げられる沖縄の姿ばかりか、魂を、スピリットを見失ってしまったものたちの、終わりのはじまりをこそ見せられるものがある。
魂的事象のそこから世界を撃ちたいものだ。それでこそである。
〈追記〉恵比寿の東京都写真美術館で、8月15日〜10月15日まで「エクスパンデッド・シネマ再考」展において、ぼくがニューヨーク時代に制作した実験映画『ループ式』が、当時の資料と共に、展示上映されている。
カントリー・ダイアリー 36 花は咲き、鳥は飛ぶ
148号(2017-6-20)
秋の稲の収穫後、冬の間もずっと水を張ってきた不耕起のふゆみず田んぼ。藻が繁茂し、余すところなくヤマアカガエルのオタマジャクシがぴちぴちと跳ね回って田んぼを耕してくれていて、沼地と化している。もうヤゴから羽化したトンボが飛んでもいる。寒気が入り込んでいたものの、苗代では早苗(カミの苗)が無事育ち、いよいよ田植えだ。田のカミに、早苗の成長を願いながら手で一苗一苗植えてゆく。そして夜にはかまびすしいカエルの声に包まれる。
この間、人の世では、特定秘密保護法、安全保障法制の施行、共謀罪の新設、そして憲法改正へと立憲主義を空洞化してゆく作業が進められている。その背後では、田のカミ、山のカミなどを祀ってきた日本の神社の9割以上を束ね、伊勢神宮を本宗と仰ぐ神社本庁などが暗躍しているという事態になって来ている。再びの日本神話に基づく国家神道の世への画策。まこと神話の力はすごい。人を動かし、国家を動かしている。
その土台を作ったのが成長の家の創始者谷口雅春。大本教の信者だった谷口は、戦時中戦争遂行を全面賛美し、戦後も天皇の臣民として帝国憲法への復帰の旗を振りつづけ、神社本庁などと共に、後に、天皇の下に、愛国教育、伝統的な家族観、自虐的な歴史観の否定などを強力に推進してゆく政治圧力団体である日本会議として結集されることになる運動を推進してきた。そこにあるのは近代民主主義の根幹そのものの否定である。そしてこの日本会議に連なる日本会議国会議員懇談会には現在衆参両院約280名が名を連ね、現閣僚のほとんどがそのメンバーであるといわれ、安倍政権の補佐官はそれらのメンバーで占められているという。日本会議にとって安倍晋三は狂気的に映画の主役を演じてくれるかっこうの駒となっている。
それらの運動に、明治政府による国家神道令によって、廃仏毀釈の受難を受けた仏教界の、臨済宗円覚寺の朝比奈宗源ら多くの仏教者が参加していることは驚きである。
かつて円覚寺にも住んだ禅者鈴木大拙は、戦後間もなく、『日本的霊性』によって、戦争翼賛へと突き進んでいった国家神道を批判し、仏教の中にある霊性にこそ日本的霊性があると提示し、戦後日本がたどるべき道を提示していたにもかかわらずである。その根幹にあるのは、存在や神話の実体性の無いこと(空)であり、空のそこにおいてこそはじめて生命の絶対肯定の世界が立ち現れてくるものだと。その一例として、浄土真宗の妙好人、下駄職人の浅原才市を取り上げている。鉋屑に書いた唄に「りん十(臨終)すんでまゐるじゃない。りん十すまの(済まぬ)ときまゐるごくらく」――才市。今ここにある生命の賛歌だ。
そして1960年代から20世紀末へとかけて意識の解放を叫んできたニューエイジ。それは神話からの解放を、魂を解き開くことを問いかけつづけてきた。
ジョン・レノンの「イマジン」の中にそのヴィジョンを見ることができる。天国なんてない、地獄もない。空が広がっているだけ。みんな今この時を生きてる。国境なんてない、殺したり殺されたりすることもない。宗教もない、みんな平和に暮らしてる。財産なんてない、欲張ったり飢えたりすることもない。みんな兄弟なんだ。みんなで世界を共有してると。
数年前、ぼくの住む八ケ岳に、その本部を移してきた生長の家は、1983年には政治からの断絶を宣言していたが、その三代目の谷口雅宣はエコロジーに転じて、昨年、「安倍政権は民主政治の根幹をなす立憲主義を軽視し、福島第一原発事故後の惨禍を省みずに原発再稼働を強行し」として安倍政権なるものからの離脱を宣言している。それは皇国神話から離脱の、一つの救いではあるが、かつての生長の家の活動家たちは今もかたくなに日本会議の中枢にあって、日本会議を操りつづけている。
宗教学者の島薗進は「停滞期において不安になった人々は、自分たちのアイデンティティを支えてくれる宗教とナショナリズムに過剰に依拠するようになる」と。今ますますそうした傾斜に拍車がかかっている。それは日本ばかりかアメリカやヨーロッパはじめ、国際的な動向となっている。
だがこの問題は、神話と人類の根源的な問題としてあるように思える。
人類は、その出自から、神話という物語をつくり上げつづけてきて、神話なくして生きてゆけない存在であるかのように思われる。その問題を追ってみたい。
人という類がホモ・サピエンス(原生人類――賢いヒト)になったその秘密は「まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。……伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた」のであり、「膨大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾良く協力できる」ようになった。「とはいえこれらのうち、人々が創作して語り合う物語の外に存在しているものは一つとしてない。宇宙に神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。」そして現実は「その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ。適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることができる」――ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』(柴田裕之訳 河出書房新社、以下引用同書より)
今まさに、そうしたことが日本会議によって行われようとしている。彼らの神話は、天照大神に連なる男子一系の天皇制であり、帝国憲法であり、教育勅語である。そしてそれをもって、合意形成を目指すのではなく、秘密裏に権力を策動して、強圧しようとしている。妄信の極みという他はない。
とはいうものの、人は、存在しないものによって、虚構によって、その妄想によって、世界を創出しつづけている。人とはまさに妄想する動物であるとまずもって深く自覚しなければならないのではなかろうか。
「神話は誰一人想像できなかったほど強力だった」。「だが、そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな想像や、彼らが創作して語り合う神話の中だけ」なのだが、神話という「想像上の秩序は邪悪な陰謀や無用の幻想ではない、むしろ、多数の人間が効果的に協力するための、唯一の方法なの」であるとハラリはいう。
そしてハラリは「近代には、自由主義や共産主義、資本主義や国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数登場してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だがこれはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べてなんら遜色のない宗教」なのであり、企業や法制度や国家や国民、そして人権や平等や自由もまた、認知革命を手にした人類の、想像が生み出した共同幻想的虚構以外の何ものでもないと。
「想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走り込んでいるわけだ」――ハラリ
その果てにある人類の欲望する妄想、それは七万年前の、ホモ・サピエンスの認知革命以来、神になることだったのではなかろうか。神を見、神と一つになることを夢見、そしてついに、人類は神になろうとしている。遺伝子の組み換えによって生命を操作するという生物革命を手にして、神の限りない命、非死を獲得するところまできたのだから。
では人類とは妄想することなくして、神話なくして生きることの不可能な動物である他ないのだろうか。想像の中にこそ、人類の、ホモ・サピエンス(賢いヒト)故の宝物があるのだからということなのだろうか。それ無くして人はない!?
だが生命の操作という神の領域まで立ち入ったからには、わたしたちは妄想する人、ホモ・サピエンス(賢いヒト)そのものを、その根源に立って再検証してみなければならないだろう。
そもそも神は、想像の中だけに存在して、非在なものだ。
そして何よりも、妄想する〈わたし(自我)〉の非在性に気づくことこそが鍵なのではなかろうか。欲望する妄想がさらなる不安を掻き立て、あるがままの世界を、あるがままの我を見ることを妨げつづけてきたのだから。
かつてブッダが言ったことを思い出す。
わたしたち人類は今や、神の非在に、そして我なるもの(自我)の非在――存在するけれども確たる永遠不滅の実体はなく、一つ一つの個が互いに他を含み合うようにして相互依存(縁起)して生起しているにすぎない(我の実体の空性)という、この宇宙のあるがままの自然法則(ダルマ――法)と向かい合う必要がある。
するとそこに、無境界な全一態としてあるわたしが、世界がよみがえってくる――絶対肯定のあるがままの世界。花は咲き、鳥は飛ぶ。
「禅の見地からすれば、宇宙は円周のない円であり、われわれ一人一人が宇宙の中心である。もっと具体的に言えば、わたしが中心である、わたしが宇宙である、わたしが創造主である。わたしが手をあげる、すると見よ、そこに空間がある、時間がある、因果律がある。あらゆる論理法則、形而上学的原理が、わたしの手の実在を確認するために馳せ参じる」――鈴木大拙
今、人類とは何かを問い返すその時だろう。
「朝露と腐葉土と星々と月の
ヒトの言葉よりも豊かな無言」――谷川俊太郎
「生と死を理解する鍵は、もっとも奥深くにある心の本性に立ち返ることです。そしてそれが死の瞬間に起こるのです」――ソギャル・リンポチェ
カントリー・ダイアリー 35 FOOD NOT BOMBS
147号(2017-5-10)
2月9日から二週間、招かれて半世紀ぶりにアメリカを訪れ、ちょうど50年前にニューヨーク時代に作った映画の上映とトークをしてきた。今回の企画は、シカゴ美術館で開催されている、写真家の中平卓馬や森山大道らによって1968年から70年にかけて出版された雑誌『Provoke(誘発する)』の、『Provoke』展に合わせて、日本の同時代の、時代をProvokeした前衛・実験映画もとの企画の関連企画として、映画評論家の平沢剛さんが仲介して、シカゴ郊外にあるノース・ウエスタン大学が中心になって企画してくれたもの。中平卓馬とは、金坂健二とともに70年に、ジョナス・メカスなどと一緒にアメリカで立ち上げた「ニューズリール」運動の、日本版「ニューズリール・ジャパン」を立ち上げたことがある。そしてその連帯企画として「Collaborative Cataloging Japan」がフィラデルフィアで企画してくれ、さらに西海岸のバークレーとサンタクルズを長年の友人であるアンディー・クトリエーが企画してくれることになって実現したもの。
ニューヨークでは、50年前映画に燃えたイースト・ヴィリッジの古巣、バワリー三丁目の角にあったスタジオ「ザ・サード・ワールド・スタジオ」を訪ねた。ウイークエンド・ヒッピーたちでにぎわったセントマークス通りは、その面影もなく、かつてアル中のホームレスやプエルトリコの移民たちでごった返していた街は、日本の寿司やうどん店やインド料理店などがここかしこに店を構え、オーガニック・フードの店が進出し、次第にお洒落な街に変身しつつあった。そしてバワリー三丁目の角に立ったが、かつての古びたビルはすでに取り壊されて、新たなビルが建てられつつあった。さらにもう一つの、マービン・フィッシュマンと共にスタジオを構えていた「スタジオM2」を捜すが、なかなか見つからない。やっと2East2の番地を頼りに捜してゆくと、それはそこにあった。古びたレンガ造りの三階建て。一階は隣のレストランに浸食されてすっかり変わっていたが、上の二階はそのまま。50年前、すっかりぼろぼろだったビルが、50年後もそのままだ。そして筋向いにあって、友人が市から借り受けて地区の若者たちの映画教室を開いていた旧裁判所が、67年に「ニューズリール」を共に創設した映画作家ジョナス・メカスが主宰する「アンソロジー・フィルム・アーカイブス」に変身していて、案内してもらう。50年前はここにジェイルがあって、鉄格子がはいっていましたよと、担当の若者に説明する。一階が事務所で二階、三階に映写室があって、シアターとなって、かつてフィルムメイカーが制作した映画の収集、保管、修復、上映活動をしているという。お洒落の街に変身しながら、かつてはスラム街故に家賃が安くてアーティストたちがスタジオを構えることができて、創造の活気に溢れていたアナーキーな街は、地価の高騰で、アーティストたちがマンハッタンを離れて郊外へと移動を余儀なくされているという。かつてはそこにいるだけで、世界の中心にいるという創造のきらめきがあったものだ。外に求め続けていた世界が、自分の只中にあって、わたしが世界であり、世界の中心であった。だが今や、世界のあらゆるところが、一人ひとりが世界の中心になりつつあるということかもしれない。
映画は、1967年4月のイースターにセントラルパークで行われたサイケデリック(魂を開く)時代の幕明けBe-Inの記録映画『HEAD GAME 』、67年10月21日(のちに国際反戦デーとなる)に行われた、米国防総省ペンタゴンへのベトナム反戦のデモンストレーションの記録映画『NO GAME』、音に合わせて踊る裸体にスライド・プロジェクターで映像を投射しながら撮影した多重露光による幻想的作品『SALOME'S CHILD』、そして6台の16ミリプロジェクターによる6面マルチスクリーンによる60年代アメリカ社会のリアルな姿をダイナミックに暴き出そうとした『GREAT SOCIETY』――などを上映。
会場の声からも、半世紀を超えてなお、『SALOME'S CHILD 』や『GREAT SOCIETY 』には、未だ映像の、Provokeする力が宿っているのが分かる。映像のもつ衝撃力。
東海岸のバークレー。かつて60年代には、サイケデリックの花が開き、ヒッピーたちがたむろした街。会場の「Blue
Willow Tea Space」、とてもお洒落なTea Cafeだ。吹き抜けの建物のなかに、世界各地のお茶が並び、奥には日本式の茶室があって炉が切られている。店主はかっこいいタトゥーをした活気みなぎるお姉さん。多くの日系の人々が声をかけて来てくれ、その中に、25年前に訪ねたことのある、盟友の故秋野イサムの元ワイフであったフサコさん。
1966年の初めに、はからずもサイケデリック・レボリューションの夜明けに立ち会った話からはじめる。このバークレーでの会は、映画ばかりではなく、ぼくの生き方や自然農のことなど広範なトークと対話となった。最後に、60年代を映し出した映画に、80歳を過ぎたであろうフサコさんが「歴史は繰り返すです、みなさん、あきらめずに頑張りましょう、わたしの娘は今反トランプでがんばっています」と元気な声を上げられた。そして夜のルート1号線を太平洋沿いに南に一時間半ほど車で下って、アンディーとシンシアが暮らすサンタクルズに。
このサンタクルズはリサイクルや自然保護運動が盛んで、オーガニック・フードの先進地だという。そしてスケート・ボードやマウンテン・バイクの発祥の地であるとも。上映会場は、かつての教会を、キング牧師やマハトマ・ガンディーなどの非暴力運動などを進めるNGOが借り受けて活動している拠点。
三歳の時、戦火の中で世界のすべてであった母とはぐれて、たった一人の自分に目覚めたその時、爆撃機が襲いくる中でまざまざと死を突きつけられて、世界はもはやわたしを優しく包み込んでくれるものではなくなり、世界は対立的敵対的な、引き裂かれたものになってしまった。振り返ってみると、ぼくの人生の旅は、この引き裂かれた世界を、再び一つにしてゆく旅であったように思われるなどと話してゆく。
アンディーの案内でカリフォルニア大学サンタクルズ校に農学部の試験場を尋ねる。サスティナブルな農業をめざして、オーガニックな農業の、子どもたちへの教育プログラムからメキシカンなどの貧しい人々への農業の技術指導など、さまざまな楽しいプログラムが用意されていた。まさにオーガニックの先進地である。
そして帰り道、オーガニック・フードのお店に立ち寄る。巨大なスーパーマーケットで、すべてがオーガニックの食品だ。量り売りのナッツや穀物、製品化されたオーガニック商品の洪水、オーガニックのお惣菜からアイスクリーム、チーズなどなど。ものすごいオーガニック産業である。これだけの大きな需用があって、それを満たすだけの生産や産業があるということ。余りにも圧倒されて、溢れかえるオーガニック食品の前で、買う欲望が萎えてしまうほどだ。何かが違う。オーガニックながら、産業に飲み込まれて資本の論理に翻弄されている。その裏に、オーガニックに手の届かない多くの人々がいるのが見える。ほんの少し前まで、オーガニック・フードは当たり前のものだった。
では日本ではどうだろうか。日本ではまだまだオーガニック・フードのマーケットははなはだ小さい。アンディーがいう。「でも毒でしょう、信じられない」と。ぼくが加入している安全な食品への意識の高いといわれる生協でも、遺伝子組み換え食品への反対運動は取り組まれているものの、オーガニック・フードへの取り組みは余りみられない。この差は何なんだろうか。
だがオーガニック先進地のカリフォルニアでも、昨年遺伝子組み換え食品を禁止する住民投票が行われたが、モンサント社の猛烈な反対キャンペーンで否決されたという。
アンディーに連れられて、街の一角で開かれているファーマーズ・マーケットへ。毎水曜日開かれているという。その一角に着くと、ドンドンジャガジャガと楽隊のような音楽を騒がしく流しながら、大きなトラックが行進していった。フリーフードを土日に提供している団体の車だという。
このファーマーズ・マーケットの参加店はすべてオーガニックだという。夏にはこの何倍もお店が出る。オーガニック・ココアを味見し、Rawミルクを試飲して、ざくろのドレッシングや様々なオーガニック食品のお店をのぞき込み、話し込みながら、最後はエチオピアンの屋台で料理を頂くことに。
会場をぐるっと回り込んだところに、小さなテーブルを出して、「FOOD NOT BOMBS(爆弾でなく食べ物を)」と掲げた旗がかかっている。一週間で使われる世界の軍事費で世界中の人々が一年間飢えることなく食べることができる、FOOD NOT BOMBSだと。『平和に飢えてる――FOOD NOT BOMBSで貧困と戦争を終わらせるためにあなたのできること』と題した本の横に、黒表紙の『アナーキスト・クックブック』という本が置かれている。この国にアナーキストがいるのか。アナーキスト・クックブックって、どんなクッキングなのと尋ねると、ちょうどそこにその本の著者である、まことに頼もしそうなキース・マクヘンリーさんがいて、熱弁を振るってくれた。
何万もの人々が毎日飢えているときに、どうして戦争にお金を使えるんだい。飢えている人々に暖かいビーガン(完全菜食主義)やヴェジタリアン・ミールを提供し、ニューメキシコのタオスには持続可能な有機農業のパーマーカルチャーの農場をもって研修生を受け入れ、サスティナブルなエネルギーなどのプロジェクトを持ち、非暴力直接行動の訓練などをやってる。そして資本に絡めとられない協同組合によるオーガニックフードの生産や反グローバリズム運動など、戦争や貧困や環境破壊に対抗する非暴力直接行動、非暴力による社会変革を、各組織が独立してゆるやかに連携しながらやってると。
今、大地とつながって生きるネティブ・アメリカンの大地を横切って、巨大な石油パイプラインが設置され、水資源の汚染が心配されて、オバマ政権が建設中止を決めたが、トランプ政権になって再び認可され、その大地を守ろうと、アナーキストといわれる人々が反対運動に参画しているという。
大地との有機的なつながりを取り戻す、大地とつながりながらわたしたち自身を取り戻す――オーガニック・アナーキスト。
Greatを叫ぶトランプのアメリカについて尋ね、尋ねられながら、思うことがある。
1960年代、ヨーロッパ的伝統から解き放たれた時空間で、アメリカが文化的に飛翔した時代。アンダーグラウンドからオーバーグラウンドへの、いのちの根源である無意識の地平から既成の意識への反乱。そして意識の解放が社会の、政治の解放へと突き進んでいった時代。わたしの全的変容を賭けた、世界の変容。1968年夏のシカゴでの民主党の大統領候補を選ぶ党大会に、政治化していったイッピーたちは、民主党の候補者でも共和党の候補者でもないと、本物の豚を大統領候補に押し立てて反乱を画したものだった。
そして今、とんでもないトランプによって暴き出されてきたアメリカが、世界がある。リベラリズムかポピュリズムかではなく人間至上主義(欲望の民主主義)そのものが限界にきて、グローバリズムか保護主義かではなく資本主義市場経済(欲望の資本主義)そのものが限界にきて問われている、その表れなのだ。
そしてポスト・トゥルース(真実が意味をなさなくなった時代)といわれ、真実はそれぞれの人にとっての真実にすぎなくなってしまった今日、世界に再びより大きな秩序をもたらしてゆくには、オーガニック・アナーキストたちが見ようとしている根源的な地平、大いなる大地とつながった大いなるわたしの、互いに他と含み合い相互依存して、多即一、一即多である、有機体的アナーキーな(支配する者のいない)秩序(生命宇宙の自然法則)の再発見こそ問われているのではと、アメリカの旅を終えながら思う。
34 明日への寓話 5 百億年の孤独
146号(2017-3-10)
薄明の空に、オリオンがまたたき、わたしの内に百億年の孤独がひろがってゆく。
そこに心身脱落してゆく〈わたし〉がある――。
宇宙は百億年の孤独を生きている
――それは、この時空において、ただ一つきりの存在(宇宙)だからだ。
わたしをして意識せしめる精神が、心が
その孤独を深々と呼吸する。
◆
なぜかこの意識、それは宇宙自身が現わし出してきたものであり
意識の形象化としてこの世界は現れ出てある。
そしてそれは、わたしたちに大いなる物語、神話を語り出させた。
神話、大いなる物語がある限り、人は生まれ、死んでゆくことができた。
百億年の孤独を深々と呼吸する。
十六夜の月が中天にかかって、大きな虹の輪をかけている。
やがて山の端の空をうっすらと赤らめながら、世が明けてくる。
悉有(全存在)が仏性なのだ。その仏性の中で生き、呼吸し、死んでゆく。全宇宙が仏性なのだ。
それは全世界が神だというに等しい。神から神へと神を生きる。ブラフマン(梵)からブラフマンへとブラフマンを生きる。その外なんか、ないのだから。――で、大安心。
かくして百億年の孤独が癒された〈時〉があった。
この世から彼の世への旅路を旅し、生は神々に満ち、永遠を獲得することができた。
だが、わたしたちの内で神々が死に絶えたとき、そこには、再び、百億年の孤独の淵に立たされてある〈わたし〉があるばかりだ。
かくして内なる百億年の孤独への長い長い旅がはじまる……。
◆
そして今、ただひたすら大いなる生命の内へ、一なるものの内へ還ってゆくものがある。
◆
今日の文明へと歩んできた人類の、人類としてのその未来は閉ざされているのが見えてきて、それにあらがうように、そのあがきとして――無意識的に――ヒステリックに、アレルギー的に反応して、扇情的アクトが荒れ狂おうとしている。人類はその知の、妄想的果実によって、その種を滅びへと誘いつつある。
その道からダウンシフトして、己が魂のリアリティに従いゆき、終末があろうとなかろうと、時空を超え出て、今ここの、永遠の今にある心ある道を歩きつづけることに賭けるしかあるまい。魂を魅する水玉模様で世界を覆わんとする草間彌生の『わが永遠の魂』のごとく。それこそ新たな世界を開く道となってゆく。そう思われる2017年の新年である。
せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、唐土の鳥が渡らぬ先に、とんとんとんとんすととんとん……。
◆
はらはらはらはらと雪の野に雪が舞い、吹雪き、そして舞っている。
夜半、十六夜の月が上がり、雪の野を凍らせながら輝かせている。
◆
アメリカ国民の半数が不支持を表明する中、トランプ大統領が就任。アメリカをGreatにと、排外的なアメリカ一国主義を唱える。だがアメリカはこれまでもずっとアメリカ一国主義ではなかったのか、アメリカこそが世界だと。先住民を蹴散らし、世界を蹴散らしてきたのではなかったのか、力こそ正義だと。それは冷戦時代の赤狩りからベトナム戦争、そしてテロとの戦いの異教徒・異分子排斥へとつづいてきている。
『メイキング・オブ・アメリカ』という本で阿部珠理は、アメリカははじめから格差社会であり、格差社会アメリカで中産階級が増え、解放運動が花開いた1960年代は、むしろ例外的な時代だったのだ、という。だがその時代も、ケネディー大統領の登場とともに黄金の60年代と呼ばれたが、虚像としての偉大なるアメリカGreat Societyは、常にありつづけていた。その虚像に立ち向かって、激しくリアリティを求めていったのが60年代だった。
◆
その60年代アメリカで制作した映画 、その名も『Great Society』と名付けられた映画などの上映とトークをしてくれないかと、オファーがあり、50年ぶりに、2月9日から約二週間の予定でニューヨークなどへ出かけることになった。映画評論家の平沢剛さんが企画してくれて、フィラデルフィア、シカゴ、そしてこれは別企画(友人のアンディの企画)になるけれども西海岸のバークレーとサンタクルツで、上映会とトークを持つことに。半世紀の時空を超えて、Greatを叫ぶトランプのアメリカで、どんな対話になるのだろうか。大統領就任式の翌日、ワシントンDCでは50万人の、そして全米では数百万人の反トランプデモ。市民力による再びの60年代が再来するのだろうか。ニューヨークでは2日間のお休みがあり、かつて映画作りに明け暮れた古巣のロワー・イースト・サイドを訪ねてみようと思っている。
33 明日への寓話 4
145号 2017-1-10
ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞と。60年代オルタナティブ文化の認知ということだろうか。「風に吹かれて」でディランは悲しげに歌う、世界がどこまで壊れたら人々は目覚めるのだろうかと。半世紀後の今、更にも増して壊れつづける世界がある。60年代以上に、内的な心(精神、魂、スピリット、哲学)を社会化してゆくことが要請されているように思える。久しく取り組んでいる自然農もまたその社会化を要請されている。自然農をすること、それは農にとどまらず、社会をその内に巻き込んでゆく――自然農の社会化の視野の中に(141号に紹介した)『都市を滅ぼせ』(中島正)がある。収奪としてある他ない都市。そこからドロップアウトして、一人ひとりが自給的農をすることを選び取ることによって、都市への食糧供給を断って都市を滅ぼす。(前号で、石牟礼道子がいうように)ますます近代の呪縛を解く呪術師とならねばならぬ。
11月にあるこの市の市議選に出ることを決したKくん(34歳)が訪ねてくる。わくわく村収穫祭でアボリジニの楽器ディジュリドゥを演奏してくれたり、瀬戸内海の島の棚田保全活動に出かけたり、フリースクール「まあるい学校」の設立・運営にかかわったりしていた若者。これまで政治とは無縁だった若者の、初めての市議選挑戦。「ありがとうでつながる、子どもがホッとする優しい地域へ。そして北杜市からLOVE&PEACEを」とある。心の社会化へと歩む一つの道がここにもある。そして11月13日の選挙日。市民派市長の当選はならなかったものの、市議選に初挑戦したKくんは当選。少しずつだが、この市でも地区の利権代表ではない市民派議員の数が増えてきている。
新たな自我の定立
朝焼けの中、西の山の峯にわずかに一条の陽が射し込み、白い二十三夜の月が中天にある。稲田は刈り取られ、しみじみと秋の深まりがある。そして冬寒の風の中、赤く暖かい陽が東の山の端に上がってくる。
この4月に心臓発作で突如逝去した盟友久松重光さんのお別れ会を兼ねた絵画展が彼の自宅(それは絵本作家小川未明のかつての別荘)であり、出かける。入口には「あらかじめの離別」と題された、卵黄を使って描かれたとても細密的なテンペラ画がかけられてあった。
2003年、鎌倉から八ケ岳に越してきた久松さん。「鎌倉時代に借りていた家にはいつも野良猫が住み着いていましてね、何故かもう死にそうな野良猫ばかりが集まってくるんです。普通は人気のない隠れたところで死んでゆくんですけどね。それでぼくの布団にもぐり込んで来たり、そこでおしっこしたりするんですね。そして死んでゆく。で、借りていた家の庭に葬ってやるんですけど、庭中猫のお墓になっちゃって。それに猫のおしっこで、布団ばかりか、畳から床まで抜けてしまって、こっちに引っ越してくる前に、床を張り替えて、大家さんにお返ししてきたんですよ」という。
77年から79年にかけてルドルフ・シュタイナーの人智学研究のためドイツのユーゲント・ゼミナールに留学。帰国後、人智学の研究・翻訳に取り組むも、シュタイナーのキリスト教的思考に限界を感じて、イスラームのスーフィズムの研究や禅の修養に分け入っていったという。訳書に『シュタイナーの危機の時代を生きる――学問・芸術と社会問題』(ヴァルター・クグラー 晩成書房 1987年)、『スーフィー、西欧と極東にかくされたイスラームの神秘』(イドリース・シャー 国書刊行会 2000年)などがある。
神秘主義やアニメの世界にはまりこむ一方、東北大震災時にはフクシマの人々の心に深く寄り添い、たびたびフクシマに通いながら、福島からの避難や保養プログラム、原発訴訟などに心身を投げ出して取り組んでいた。
久松さん、我が家のわくわく田んぼでお米づくりもやっていた。脱穀後の田んぼをおろおろと歩きながら、落ちた稲の一穂一穂を何とも愛おしくて拾わずにはいられない久松さん。他は私という全存在への愛おしさ、共感力だろうか。その感性が稲の一穂へ、死を予感した猫たちへ、そしてフクシマの人々の心へと向かっていったのだろうと思われる。地域通貨やベーシック・インカムの導入、アニメや人智学などの叡智の空間への旅、そして原発の違憲訴訟やフクシマへの支援などを通して、世界の変容へと心ある道を歩きつづけた人だった。遺されたメモに「自然の摂理である自然法に、憲法九条はその根を持っているように、僕には思えました」とある。
「現代の科学研究も、改めて梵我一如の真理を垣間見る思いがします。広大無辺な宇宙の中で、人の自我が改めて定立される時代が、再びやって来て欲しいものです。そうすれば、生きるという意味も自ずと変わってきます。それまでは凡夫である僕は、煩悩即菩提という大乗仏教の慈悲にすがって、残りの人生を〈生かされて〉ゆこうと思っています」(久松重光「わくわく村しんぶん」108号2014-6-15)
久松さんが、人の自我が改めて定立される時代という、その定立のあるところとは、自己を忘れ、他己(自分の中にある他)を忘れる無境界のところに溶け込んだ我の定立をいうのであろう。そしてそれまでは煩悩(迷い)をしっかりと生きてゆこう、仏の慈悲において煩悩即菩提なのだから。いや何としても、悉有(全存在)が仏性なのだ。その仏性の中で生き、呼吸し、死んでゆく。
近代の呪縛
11月23日、地域通貨「湧湧」の、わくわく村収穫祭。しだいに晴れ上がってくる空。風に煽られつつ、外の竈に火を起こし、羽釜をかけ、その上にせいろを三段載せて、もち米を蒸かしはじめる。やがて出店者が集まりはじめ、旗を巡らせ、祭の準備。まず黒米の餅を搗き、今年一年の稲作に感謝して、稲魂に大きな鏡餅を捧げる。そして音楽の演奏もはじまり、ハープの演奏からターボー&教子の自らの白血病からの帰還に込められた「生まれ変わる」を歌った力強い歌、そしてKURIの軽快な民族音楽などなど……。
そして4時からは屋内で、Hさん企画の、今井康雄東大名誉教授(教育学)による「プロパガンダのメカニズムを解剖する」――「ヒトラー青年クヴェックス」を観ながら――。「彼の専門の一つは、映画などの映像を用いた教育効果に着目して利用した、ナチスドイツの研究。ファシズムがじわりと浸透しようとしている現在の日本。彼のメデイア論や、映像を利用した思想教育の問題点を、聞いてみては」というもの。映像のそこには体制の物語の内に掬い取られてゆく人々の姿があった。
後の質疑の中で、なぜもう一つの(反体制の)物語は有効性をもたないのだろうかという問いかけがあった。例えば岐阜の96歳の老農のプロパガンダ『都市を滅ぼせ』。その都市を滅ぼせというロパガンダは、なぜ選び取られないのか。真の命はバーチャルリアリティーのポケモンGOになぜ勝てないのか。なぜ魂を解き開くサイケデリックのプロパガンダは、壊滅させられてしまったのか。近代の呪縛を解くことの何と困難なことか……。
そして呪縛を解きつづけて、つまりは、物語はないということに至る。あるがままが在るだけというところにたどり着くことになる。教条的物語なくして生きてゆくことのできない人類という種にとって、教条的物語にあらがう(教条なき)在るがままの(物語ならざる)物語は、もはや人類を魅惑する力を持たないということなのだろうか。いやそれは神秘(謎)そのものの命なのだから、絶大な超絶的魅力を持っているはずだ。分け入るべく自らの呪縛を解くことが困難で、それを見ることができないだけなのだ。
地域通貨と再びのエンデ
三井さんのところで自然農学びの会の収穫祭があり、出かける。ちょうど餅つきの終わったところで、お餅をごちそうになる。自然農を学ぼうとする新しい若者たちの姿がたくさん見られた。この八ケ岳で「自然生活学校」を主宰して、自然農やふゆみず田んぼを教えている?さんと話し込む。この地域でどうコミュニティを作っていったらいいのかと。
コミュニティを求めて2001年に立ち上げた地域通貨「湧湧」を振り返ってみる。地域通貨「湧湧」のはじまりのきっかけには『エンデの遺言』(講談社+α文庫)がある。最晩年のミヒャエル・エンデへのインタビューである。
そこでルドルフ・シュタイナーの提唱する人智学徒にして童話作家であるエンデは、お金は人が作ったものですから変えることができますと。そして世界各地で行われている地域を活性化する自主的な地域コミュニティ限定の「地域通貨」や、国家が破綻した時いかに地域通貨が地域を活性化する機能を果たしてきたかなどの紹介がある。
エンデはその著作『モモ』においては、時間どろぼうに次々と時間を売り渡してゆく人々の姿を取り上げ、また「果てしない物語」においては、人々の夢見る力の衰退が世界の衰退をもたらしていると指摘し、ますますグローバル化してゆく資本主義市場経済に『エンデの遺言』において、お金は人が作ったものですから変えることができますと提言する。
ますます加速化する情報産業化社会において、時間どろぼうに売り渡しているわたしたちの時間を取り戻し、そして壊滅化してゆく世界に内なる生命の夢見る力を取り戻し、仮想化した資本主義市場経済に地域から発信してお金にからめとられない身の丈の実体的経済を取り戻してゆく、あるいは贈与の経済学。そうしたところから地域通貨「湧湧」は発想されてきたように思う。そしてその延長線上には新たなコミュニティや新たな世界の姿があったはずである。
この11月に発行された「わくわく村しんぶん」111号には、地域通貨「湧湧」の16年を振り返って「地域の仲間との活動は本当に楽しい時間を過ごしてきました。お金では叶えられない夢をたくさん一緒に共有してきたと思います。地域通貨って物々交換ではなかったんですね。きっとその一緒に共有してきた時間の事かも。その時間は宝ものです」との湧湧のメンバーのコメントがあった。その「時間」が人と人の輪を、コミュニティを作り、地域の経済を、地域の社会を作り上げてゆくのではなかろうか。宝ものの時間を共有する。そこから宝もののコミュニティも生まれてくる。そうした宝ものの時間を育んでゆくことだ。
32 明日への寓話 3
144号 2016-11-10
隣町の古民家「和の家」で、韓国の写真家鄭周河(チョン・ジュ・ハ)さんの、フクシマを撮った写真展「奪われた野にも春は来るか」があり、鄭さんと東京経済大学現代法学部教授の徐京植(ソ・キョンシク)さんのトークがあるというので出かけた。かつては豊かであった大地。「しかし、いまは野を奪われ、春さえも奪われようとしているのだ」と、日本による祖国併合の苦しみを詠った韓国の詩人李相和(イ・サン・ファ)の詩から取られたタイトルのごとく、奪われた野がしずかに広がる写真群。花は咲いても、春は来ることはない。花の向こうに目に見えぬ、限りない滅が広がっている。写真展を重ねてきて、来てくれるのはお年寄りばかり。若者たちの関心のなさがとても気にかかると。ポケモンGOにうつつを抜かしているばかり。原発の再稼働へとひた走る日本の姿。狂気の寓話としか思えない。会場で「安藤昌益を世界に発信する会」のKさんを紹介される。
まあ何ともこの人の世は狂気である
狂気でできている
地球を食べ尽してしまうまで爆発しつづける人口
地球そのものを滅ぼすまで止まない乱開発
何万発もの核兵器に守られなければならない平和――何とも狂気である
そもそも人の存在そのものが、何とも狂気である
人をして狂気と化したものとは何だったのだろうか
その脳の進化においてなのだろうか
その言葉においてなのだろうか
その技術や科学においてなのだろうか
人の欲望する狂気
欠乏への狂気
ますますもって狂気してゆく人という類
狂喜して狂気と化してゆく
何から抜け出すために?
何から
己から、おそらく
己という狂気
宗教という狂気
文明という狂気
支配という狂気
権力という狂気
民族殲滅という狂気
戦争という狂気
狂気する狂気
わたしたちが何よりも狂気の寓話を生きているということ
スーパーマリオになってリオへ行くなんてもっての他
都市を滅ぼせ――今こそ昌益(安藤昌益)
いのちの思想家 安藤昌益覚書
安藤昌益(1703年〜1762年)元禄の世、現在の秋田県大館市の二井田村に生まれる。京に出て禅を修め、悟りを開いて印可を受けるも、仏門を離脱。悟りに達したならば、そこには仏門も仏法もなく、ただ真如(真の在るがまま)があるだけだ。仏を殺し尽してこそである。のちに昌益は言う。仏教は悟りへの欲望をかきたて、布施すれば極楽往生するなどと虚言して、人の心を支配して、耕さずして寄食すると。そしていのちの本然の姿を求めて医の道を修め、在るがままの絶対肯定のいのちの世界に踏み入っていった。心身と社会の病を直し、改変して真如の世(自然の世)を実現しようとした。著書に『自然真営道』、『統道真伝』、『学問統括』などがある。
その思想の根幹は「二別一真」にある。すべてのいのちは、「活真(活きて真なるもの)」の活動であり、大いなるいのちの宇宙と呼応し合い、互いに他の存在と含み合い、宿し合って共創しながらそのいのちを生きているのであって、男女、天地、正負、生死、全体と個、共通と差違、普遍と多様といった二つのもの(二別)は、互いに関連し合い、宿し合って、一つのもの(一真)である。二別一真。二即一(二はそのままで即一つである)、多即一であり、同時に一即二、一即多である。一つの米粒もまた天地宇宙と相互依存し、かつ天地(全体)を宿しているものに他ならない。
人は男女で人であって、二で一つのもの、そこに上下、貴賤などはない。そのように人はみな、互いに依存し合っているのであって上下や支配・被支配などありはしない。耕すことなく口を弄して貪り食べる聖人、学者、権力をもって支配し統治する為政者、武力をもって圧する武士、資本をもって搾取する商人、大地から資源を奪い尽す工業従事者。すべての人々は自ら耕すべしと。鉱山の乱開発に疑問を投げかけて植林を勧め、医療における投薬の害を警告し、自然の生命力・治癒力・回復力にこそ依拠すべきだと。こうして上下、支配被支配と二別する人為の「法の世」から、上下、貴賤、支配被支配もない一真の、活真の巡る「自然活真の世」へと離脱してゆく社会変革の理論を構築し、その実現を訴えた。
「天下は天地が直(じき)に衆人となりたる天下にして、天下の天下なれば、誰を治め、誰に治めらるると言ふことなし。故に天下の天下なり」(『統道真伝』)
「聖人出でてより以来大小の序出で大は小を食み全く禽獣虫魚に同じ。是れ人倫の世を以て禽獣の世と為せし聖人の罪なり」
安藤昌益の思想、それは単なる自然回帰でもなければ、閉鎖的な現物経済社会への復帰でもなく、二別する二元論的文明が分断した自然・社会・精神を統合的に再構築しようとするところにある。
だが本人は生涯耕すことなく、思索しつづけた。想いを後世に伝えねばとの思いにかられつづけたのだろう。種の落ち、花咲くその時のために。
注1
二別一真 仏教における華厳経の「事理相即」「空」「縁起」の哲学との相似性を指摘することができる。
注2
昌益の死後20数年後の1789年にはフランスで「人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、また存在する」というフランス人権宣言が議決されている。
注3
忘れられた思想家であった安藤昌益に戦後いち早く光を当てたのが、GHQの一員として来日して民主化計画にかかわったハーバート・ノーマンであった。ノーマンは『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』(ハーバート・ノーマン 岩波新書)において、日本の民主的伝統を掘り起こすことで下からの民主主義を支援しようとした。
「天下に人はただ一人なり。ただ一人の人たるに、誰を以て上・君と為し、下・臣と為さんや、この一人に於て誰を治めんや、王政を為さんや」――昌益
昌益の「活真」、あるいは「一真」の在るところ
山椒の実が赤く熟れて、中から黒い種が顔を出してきている。そして野は幾多の野菊の季節である。
この宇宙の在ることの不可思議――。
このあまりに大きな謎に答えはないけれども、答えがないから謎なのだが、その謎の前に人は絶句して立つ。このすべてのはじまりの在るところ――この宇宙を今に在らしめてきたその何かは、未分節の大いなるものとして、一(いつ)と、一の真、あるいは活真と呼ばざるをえない何ものかである。
何としても解はないけれども、それ故にこそ、一と向かい合うことが、わたしたちには最も重要なこととなる。
解のない不可思議の前に坐る――。
未分化、未分節の一のそこから見てゆかない限り、このわたしたちの住む分節され、差異化されてしまった世界での解は見えてこない。見えるはずがない。なぜなら分節の世界は何とも分節の対峙を超えられず、分節の中に在るのは分節の解であり、真の解はないから。分節を超えたそこに解はあるはずだ。そしてわたしたちは分節を超えた分節――二別一真の、一真としてある二別に立ち会う。
魂あるいは原思想
一から現わし出されてきた、分節された「二」の、物として顕現化されてきた世界から立ち現わされてきた意識・魂・心・スピリット……。そして今や世界は、わたしたちの前に、意識や魂や心やスピリットとして立ち現れて在る。魂として、意識として、心として、スピリットとして語り、語られて在る。だが、やがて人は、物と魂を二別して、魂を消し去ろうとしてきた。
二別する言葉。言葉を失ってはじめて人は魂と出会うことができる。
石牟礼道子は、言葉を失った水俣病の人々との出会いのそこで、自らも言葉を失いつつ、
魂と出会う。魂において魂と対話し、(あなたの)魂に語りかけようとする。二別する分節を超え出た一(不二)の魂のところにおいて。
「杢は、こやつぁ、ものをいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす。耳だけが助かってほげとります。……あねさん、この杢のやつこそ仏さんでござす」(石牟礼道子『苦海浄土』)
苦のそこからこそ、大いなる力が現れる。
そして石牟礼は「私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ」と。そこには始原の祈りがあり、始原の魂があり、不二の原思想があるのが見える。
水俣病患者の一人はこう言う。「時代の中ではすでに私たちも〈もう一人のチッソ〉なのです。〈近代化〉と〈豊かさ〉を求めたこの社会は、私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱して行くのかということが、大きな問としてあるように思います」(緒方正人『チッソは私であった』)
わたしたちの文明が今、己の欲望の果てに、デッドエンドに向かいつつあることを見、その大きな問に向かい合う以外にわたしたちに道はない。自らの呪縛を解けるかどうか。近代文明に絡めとられた人類の呪縛を解くことの何と困難なことか。
31 明日への寓話 2
143号
廃墟を撮る写真家中筋純さんの「流転 福島&チェルノブイリ写真展」を見に、6月30日、40分ほどドライブして長野県茅野市の美術館へ出かける。これから半年にわたる全国巡回展の初発展。中筋さんには、数年前、我が家の庭で行われる地域通貨「湧湧」の秋の収穫祭わくわく村祭りでチェルノブイリの廃墟を撮った写真展をしていただいたことがある。
会場には、チェルノブイリと福島の、原発事故後廃墟と化してゆく様が、多大なパネルとことばで紡がれていた。チェルノブイリ原発事故から三十年、福島原発事故から五年の、意味の共時性が、見るものに否応なく迫ってくる。
写真家は「幾とせか --頬なで想う 春風に」と題した展覧会に寄せたことばに、「私が〈リアル〉というものに初めて直面したのは、チェルノブイリの地に立った今から九年前(2007年)の晩秋のことだった。鳴き続ける線量計、崩れかけた石棺、捨てられた団地群、跋扈する野生動物、そして枯れてもなお街を覆い尽さんとする植物達……。(中略)写真を生業とするとその虚構性に気付いてしまうのだが、チェルノブイリの地はそんな薄っぺらな虚構性は到底許してくれはしない。(中略)人類の進歩の根源を、頬に春風を感じながら今一度考えてみようと思う」と。
福島の放射性汚染物を詰めた黒いビニールの袋を積み上げたそれらを、写真家は仏の頭のブツブツと盛り上がった髪、螺髪(らほつ)の様だという。「人はこれを〈ハイキブツ〉というなかれ。ラホツの中には暮らしあり記憶あり悲喜こもごもあり」と。汚染されてしまった暮らしの中にあった本や思い出の品の数々がそこにある。
その螺髪の、総量幾万個にもなる山を彷彿とさせる巨大な写真パネルの前で、人は絶句する。
我らが文明のハイキブツ。それらが放射能による汚染廃棄物であろうとなかろうと、自然の内で互いに含み合い、相互依存して限りなく循環してゆく、廃棄物なるもののない文明をこそ生み出してゆかねばならないのではないかと。
そこには人類の進むべき未来への啓示がある。
廃墟と化した街を覆い尽してゆく緑、野生……。それらは「忌地(いやじ)と化した地球上の傷をやさしく癒す幾重もの〈かさぶた〉のようだ」(中筋純)。存在の根底にあってわたしたちを抱え持つ自然の、草木虫魚の祈りに支えられてこそわたしたちは在る。
愛知展(名古屋栄・名古屋市民ギャラリー)
10月18日〜23日
京都展(同時代ギャラリー/京都三条)
11月1日〜6日
長崎展(長崎県美術館 県民ギャラリーC)
2017年1月11日〜15日
福島展1(群山市ビッグアイ市民交流プラザ展示室)
3月7日〜12日
福島展2(福島市テルサ福島4Fギャラリー)
3月14日〜21日
消滅から
60年代アヴァンギャルド・アートを発掘し、新たな光を当てようとしている美術家の嶋田美子さんから、同時代のアート・アクティビティーを研究しているアメリカのUCLAのウィリアム・マロッティさんが来日して、諏訪にある故松澤宥(ゆたか)さんの工房に出かけるので、一緒に行きませんかとお誘いがあり、7月22日、60〜70年代カウンターカルチャーのアーカイブを収集中の富士吉田の富士講の「御師」の家の槙田きこりと共に出かけた。
下諏訪駅近くの諏訪大社秋宮の近くだというので、まず秋宮に参拝。古式豊かな神社のたたずまいの中に、今年曳き出されて建てられたばかりの御柱がすっくと立っていた。手水所(ちょうずどころ)からは熱いお湯が出ていておどろき。湯の街なのだと気づかされる。
諏訪は大和朝廷(建御名方神)に征服されるものの、縄文の祭祀を受け継ぐ守矢氏(縄文の洩矢神の子孫)が明治に世襲が廃止になるまで諏訪大社の神職・神長官を務めてきたところであり、御柱や狩猟文化といった縄文の異端の祭祀が今も色濃く残っている。
松澤はそうした諏訪に住みつづけ、居宅は秋宮の近く、中山道沿いにあった。細長い土間を通り抜けると坪庭に出て、そこから上がり込む。そして階上に上がり、小さな部屋を抜けると、身を屈めてやっと通れる小さなにじり口を、階下へと急な階段を下りると、そこが松澤宥の「ψ(プサイ)の部屋」とよばれる「最終美術思考」工房。ψとは、ギリシャ語のアルファベットで、波動関数を表す単位だ。かつての養蚕の蚕室で、明かりは天窓のみの、低い斜め天井の細長い一室。そこに様々なオブジェやメールアートが天井からぶら下がり、壁に貼り付けられ、床に散乱されて、足の踏み場もない。小さなきのこ雲あり、袋に入れられたそろばん珠あり、意味不明の様々なオブジェたち。松澤宥の脳内宇宙の軌跡が廃墟となりつつ踊っている。
松澤さんとの出会いをはっきり記憶しているのは、彼が東京の美学校で「最終美術思考」工房を開いているときで、翻訳出版(1973年)したばかりの『チベットの死者の書』について話をして欲しいということであった。そして最後に会ったのは、舞踏家の大野一雄さんが亡くなる10年ほど前(1999年)に長野市の長谷寺で舞踏公演をされたときだった。
「死と生、痛むばかりの愛、感情、……みな見ることが出来ない、触れることが出来ない、聴くことが出来ない。でも真実に触れたい。幻以上の実存に触れたい」
大野一雄「ルプレザンタシオ」
そのとき諏訪の松澤家への訪問を約しながら果たせず、今日やっと彼の秘密基地にたどり着くことができたというわけである。松澤さんは、1922年生まれで、64年に「オブジェを消せ」という啓示を受けて以来、言葉だけによるコンセプチュアル・アート(観念芸術)を提唱し、人類の消滅と向き合ってきた。2006年没。
松澤宥と諏訪地方出身の4名のアーティストの作品展が茅野市美術館で開かれるというので、8月7日、そのオープニングに出かけてきた。入ってすぐの吹き抜けの空間に、二階天井から床を這うまでの大きな「人類よ 消滅しよう 行こう 行こう――反文明委員会」の幟旗(1966年)。そして「行こう」に「ギャテイ」のルビがふられている。ギャテイ、彼岸に渡ろうよの意だ。
会場には松澤宥の40年代後半の詩篇、50年代アヴァンギャルド時代の意識の変革を迫る作品群。アメリカから帰国後の60年代の「オブジェを消せ」とコンセプチュアル・アートを目指して突き進んでいったアートパフォーマンス――「白い紙の上に白い円を観ぜよ」などが展示されていた。
彼の歩みは「人類よ 消滅しよう 行こう 行こう」と、物質主義の文化・文明からの人間精神の解放――「ニルヴァーナ――最終美術のために」展(1970年)へと向かい、さらにはニルヴァーナ共同体を目指して、「部族」などを含めたアンダーグラウンド運動を「幻覚共同体」とみなして「オルタナティブ」な社会文化状況を視覚化してゆく作業に入っていった。そこにはマインド・オープニング(心の拡張)とオルタナティブなコミューンを渇望していった60〜70年代の若者たちの世界状況との呼応が見られる。そしてそれは〈世界蜂起〉という、葉書や封書や小包の郵送によって世界的に作品を発表・蜂起するメール・アート・プロジェクト(1971年)への参加の呼びかけへと展開していった。
今回の企画とその資料を見返しながら、松澤宥とぼくのクロスするところは、1964年のアンデパンダン展(開催場所は別々だったが)にはじまりがあり、そして70年に〈発行――「幻覚共同体」〉として発刊した心の拡張とオルタナティブなコミューンへの変革を画した『エロスの第三世界へのドロップ・イン・キット』、さらには「人類よ 消滅しよう 行こう 行こう」彼岸に渡ろうよと、彼岸(空)の色(存在)を目指した『チベットの死者の書』の翻訳出版と、直接行動を共にすることは無かったものの、互いに響き合ってきた波動関数があったと思い至ったものだ。
松澤宥の文明論的「人類の消滅」は、その消滅(ロスト・ヒューマン)が俎上に載りつつある現在、リアリティをもってわたしたちに迫ってくる。9月にリニューアル・オープンする東京都写真美術館での杉本博司の写真展はもろ「ロスト・ヒューマン」。
ヴィジョン/消滅の向こうに開いて在るもの
前線に刺激された梅雨明け間近の雨が降りつづく中、軒下の岩ツバメの巣でヒナたちが身を乗り出して巣立ちの時をうかがっている。
激高するポピュリズムの嵐において
グローバル化してゆくその経済において
その文化において、その宗教において、その文明において……。
その滅の只中に立って瞑目する。
ヴィジョンに生きる時代、そんな時代が来るのではとの予感がある。
ヴィジョン、ドリームタイム――。
(「わたしの夢見」ではなく)宇宙それ自身の創生する夢見の現成……。
30 明日への寓話 142号 2016-7-13
フランスの人類学者エマニュエル・トッドさんは言う。「みんなが信じていて、各人の存在にも意味を与える。そんな展望が社会になくなったのです。……そのあげく先進国で支配的になったのは経済的合理性。利益率でものを考えるような世界です」そして人類は、産業革命よりも重要で新石器時代に匹敵するくらいの転換点を迎えているのかもしれないと。(朝日新聞2016-2-11)
新石器時代、それは人間という意味が根源的に変わったという時代、人間が人間になった時代だ。狩猟採取生活から農耕への転換が起こった時代。人間であることの原初だ。人間であることの原初が問われ、人間であることの転換が、人間が人間であることの新しい意味が問われている。そこから出発する以外に、人類の道は拓けない。そうしたところに人類は今、立っているということだ。
ご破算に願いましてはと言ってはじめていいのかもしれない。そういうことだ。これまでの人間に、人類に関する価値観、世界観、文化、文明のご破算である。
とにかく現代文明というものは、何とも死に急いでいる。いやいや、人の種というものもまた、他の種がそうであるように、破滅に向かって歩むべく規定されているのだろう。その(宇宙)の前では、正とか善とかがあるわけではないのだから。生死あるべし。生死なかるべし。
ならばと、アマゾンの先住民との交流を重ねてきている南研子さんがフェイスブックでつぶやいていた。「この世は闇。当たり前のことが通用しないおかしな世界になってしまった。団塊の世代が70代になったら老人だらけになってしまう。そこでアマゾンのたれ死にツアーを企画して片道切符でジャングルに行く。電気、ガス、水道もトイレも無い。風呂はワニやピラニアがウヨウヨの川。食事も自分で調達。死んだら川に流し魚のえさ。結構ワクワク生きれるかも。お金を稼ぐ必要もない。参加したい人、募集しようかな」(2016-2-13)といったご破算だ。そのくらいのワクワク感。
明日の人間の原初。世界がコラプスする。異次元へワープする。
かつてインドへ旅したことがある。そこで持てるものを捨てて、身ぐるみ剥がされてゆくことが快感だった。そして魂の故郷が立ち現れ、いのちが輝きはじめた。
何もないけれども、すべてが在る。満ち満ちた今がある。
人たるいのちに必要なものは、その(何もないけれども、すべてが在る。満ち満ちた今がある)スピリットだ。
ワープしたアマゾンにあったもの。ワープしたインドにあったもの。
最終的に人間に必要なものは、そのようなもの。
叡智でも技術でもない。
獲得すべきものでもない。つねにすでに在るものだ。
後は、日々の糧をえる何かがあり、羽織るべき何かがあり、寝るべき何かがある。
歌うことも、舞うこともできる。そう哲学することも、祈ることもできる。
サカキナナオというビートの詩人は
「半径一メートルの円があれば
人は坐り、祈り、歌うよ」と歌ったものだ。
その(何もないけれども、すべてが在る。満ち満ちた今がある)スピリットがあれば、なにをやっても大丈夫だ。何をやらなくても大丈夫だ。
江戸は元禄の世に安藤昌益さんというお医者さんで思想家の人がいた。
この大いなるいのちの宇宙は「活きて真なるもの(活真)」の活動としてあり、それぞれのいのちには全宇宙が宿され、かつ互いに他の存在と相互依存してる。男女、天地、正負、生死、彼の世と此の世、全体と個、共通と差違、普遍と多様といった二つのもの(二別)は、互いに関連し合い、宿し合って、一つのもの(二別一真)。
そのように人は男女で人であって、上下、貴賤などはない。支配・被支配もない。耕すことなく口を弄し妄して貪り食べる聖人、学者。権力をもって支配する為政者、武力をもって圧する武士、資本をもって搾取する商人、大地から資源を奪い尽す工業従事者。もってのほか。すべての人は二別する人為の「法の世」から、いのちの宇宙を宿し相互依存して活真の巡る「自然の世」へと離脱して、自ら耕すべしと。足りないものは互恵の精神による交易。そして地域での自治。そのことによって平等で平和の支配し支配されることのないいのち輝き活真の巡る「自然活真の世」が実現されてゆくと。
「天下は天地が直(じき)に衆人となりたる天下にして、天下の天下なれば、誰を治め、誰に治めらるると言ふことなし。故に天下の天下なり」(『統道真伝』)
「聖人出でてより以来大小の序出で大は小を食み全く禽獣虫魚に同じ。是れ人倫の世を以て禽獣の世と為せし聖人の罪なり」
それって、ジョン・レノンの「イマジン」じゃない。天国なんてない、地獄もない。空が広がっているだけ。みんな今この時を生きてる。国境なんてない、殺したり殺されたりすることもない。宗教もない、みんな平和に暮らしてる。財産なんてない、欲張ったり飢えたりすることもない。みんな兄弟なんだ。みんなで世界を共有してる。
安藤昌益さんに心寄せる、平成の中島正さんは「都市を滅ぼせ」という。
都市という構造そのものが、それ自体で何かを生み出すものではなく、他から資源を一方的に収奪することによってはじめて成り立つもので、その活動の果てには水や大地や空気などを汚染し、生命を脅かし、支配や格差を生み出し、貨幣によって更なる汚染、収奪を欲しいままにして、競合の果てには戦力に訴え、その結果として、人類そのものを、地球そのものを崩壊に導いていっている。
食糧を断つことこそ都市を滅ぼす最上の手段である。都市を捨てて、自然循環型の自給自足の農へと人々が向かうことで、都市への食糧を断ち、そのことによってさらに人々が農に向かうことで都市が滅んでゆき、わたしたちの世界の根源的な変容が推し進められてゆくと。
あることから降りる、あることを捨てる、あることから離れる、あることを脱する。そうした人びとのネットワークが広がってゆくことによる変革。
そして農のそこには、いのちの巡りがあり、いのちの不可思議があり、生命のダイナミズムがあり、生の息吹に満ち満ちた世界がある。カミ、大自然の摂理とストレートに直結した暮らしがある。
案外それは、原発時代の先にある、新・新石器時代なのかもしれない。だって原発の延長線上にあるのは資源争奪をめぐる核戦争しかないものだから。
民主主義なんてものもどうなんだろう。人という個に主権があるとされる主権在民の民主主義も機能不全に陥って、怪しくなってる。そもそも人という個にこの宇宙世界の主権があるなんて、誰が決めたの。人間の勝手なんじゃないの。自然と自然、自然と人、人と人、生者と死者といった関係の中に生きていて、関係そのものに主体があるんじゃないの。
「自然も人間もさまざまな関係のなかに存在していることに変わりはない。とすると、自然とは何か、人間とは何かを解く鍵は、関係のなかに埋め込まれているのではないだろうか。……私たちが生きる世界には、自然と自然の交通、自然と人間の交通、人間と人間の交通という三つの交通が成立している。そしてこの三つの交通が相互に関係をもち合いながらも阻害されることなく再生産されているとき、自然と人間は共生している」(『自然と人間の哲学』農文協) と群馬県上野村にベースを置く内山節さんは言っている。そしてこう言う。
「本当の主権は私のところにはない、関係性の中にある。関係の積み上がったものを風土と呼ぶならば、主権は風土のなかにあると言ってよい。このような関係のなかにある主権を風土主権と呼んでいいかもしれないし、ローカリズム主権という言い方をしてもいい。かかわり合いが〈我らが世界〉を創っていく、そこに主権があるという展望を持ちながら、変革の時代を生きていきたい」(『主権はどこにあるか―変革の時代と「我らが世界」の共創』農文協2014年 )
人のとるべき進化とは、ほんとにこれで良かったのだろうか。この進化の向こうには、人類絶滅のシナリオがあるばかりだ。
そもそも自然に対する人の立て方、考え方がおかしいいんじゃないの。
「ソクラテス以前の思想家たちが『自然』ということで考えていたのは、いっさいの存在者の真の存在という古い根源的な意味での自然のことだった。……プラトン以来西洋という文化圏では、超自然的な原理を参照して自然を見るという特異な思考形式が伝統になりました。……哲学を『超自然的思考』と呼ぶとすれば、『自然』に包まれて生き、そのなかで考える思考を『自然的思考』と呼んでもよさそうです。わたしが『反哲学』と呼んでいるのはそうした『自然的思考』のことなんです」(『反哲学入門』木田元 新潮文庫 )
自然は超自然的な原理の単なる「質料」となってしまい、その考え方は、キリスト教に取り入れられ、「神の国」と「地の国」という二元的な教義として確立されていくことになり、現代の科学的思考もまたその延長上にあって、まさにその限界に直面して、その限界を超えること、自然的思考の、思考の在り方を改めて問われてるんじゃないの。
それって、相互に依存し合い、互いに含み合いながらこの宇宙をつくり上げているものを、二つに分けて理解しようとはじめたことから、今日の文明がはじまり、その問題にわたしたちは直面しているということなんじゃないのかな。
二つのものが二つのままで、即一つもの(「二別一真」)、二即一、多即一であるというこの宇宙の姿から、もう一度はじめてみる。そういうことじゃないのかな。
自と他、生と死、この世と彼の世、神と人、善と悪、正と邪……。二つで一つ。二つのまで一つ。互いに含み合い、宿し合ってる。
そうした関係の総体に主体が、主権がある。とても主権在民なんて言えそうにない。民主主義なんても言えない。神という超越的な原理を立てることもできそうにない。観照者のわたしをその内に包み込んだ総体。
そうすれば、この世界の絶対肯定の世界が広がってくるのでは。
新たな文明のはじまりのはじまりに立つ。
で、それはどんな思想や文化や文明を創ってゆくことになるのだろうか。
二別一真の関係学といったものだろうか。
二別一真の関係学――大宇宙の中の人間の生きざまはどうあるのだろうか……。
29 都市を滅ぼせ――脱原発への一つの提案 141号
この1月に徳島で自然農の全国研鑽会があり、最終日のテーマ〈未来へ向けて〉では「自然農以外のこと、車やハイテク産業などのことをどう捉えてゆけばいいのだろうか」という問が出されたが、それはぼく自身自然農をはじめて以来持ちつづけていた答えのない問であった。八ケ岳からパネラーとして参加していた三井和夫さんから帰り際、『都市を滅ぼせ』(中島正 双葉社 2014年刊)という本を頂いたが、そこにはこの答え得なかった問への鍵が指し示されていた。その問題は自然農の問題ではなく、都市の問題であり、都市の問題を解く中からその答えは出てくると。著者中島正は岐阜の寒村で小農を営む御年96歳。人為の「法の世」から「自然の世」への転換を説き、身分や階級差別を否定して、すべての人々が農に携わるべきであるという徹底した平等思想を唱えた江戸中期の思想家安藤昌益の研究家でもある。
「都市を滅ぼせ――これは暴言ではない。都市を滅ぼさなかったら人類が滅ぶのである。都市は実にあらゆる公害の元凶であり、諸悪の根源であったのである。都市をそのままにして公害だけを追放しようとしても、それは徒労に終わるしかない。環境破壊(地球公害)は都市機能の活動そのものであり、それは言わば都市の止むに止まれぬ呼吸作用であり、同化作用であり、排泄作用なのであった。真に都市(地球)公害を追放しようとするなれば、まず都市そのものを滅ぼさねばならないのである」(中島正『都市を滅ぼせ』以下引用同)
都市という構造そのものが、それ自体で何かを生み出すものではなく、他から資源を一方的に収奪することによってはじめて成り立つものであり、その活動の果てには水や大地や空気などを汚染し、生命を脅かし、支配や格差を生み出し、貨幣によって更なる汚染、収奪を欲しいままにして、競合の果てには戦力に訴え、その結果として、人類そのものを、地球そのものを崩壊に導いていっている。都市は都市化現象そのものによって自ら滅ぶことを運命づけられていると。
「都市は文明あるいは文化興隆のために生じたのでは断じてなく、それは疑いもなく支配階級とその一味、またその傘下に利益を得ようとする階層(商人や工業従事者)が相寄って打ち立てた〈不耕貪食の機構〉であったのである」
「自らの便益のために、あるいは進歩発展のために、自然を破壊し自然を征服してやまないのが都市である」
「貨幣が資源を浪費せしめ、環境を汚染せしめているのである。これらの都市悪(都市活動)はすべて貨幣によって〈ムリヤリ行われている〉のである」
「いまや日本は臆面もなくアベノミクスによる、さらなる繁栄成長路線を拡大し、破滅への扇動に躍起となっている」
わたしたちが夢見てきた都市とはそうした妄想、欲動の上にある。これに対して、農のみが、大自然の循環の内にあって、大自然からその実りを与えられ、そしてその亡骸(老廃物)はバクテリアによって分解され、さらなる大循環へと巡って生態系をより豊かなものとしてゆく。そうした自然循環型の自給自足的農こそが人類の選択しうる唯一つの道ではないかと。大自然という生態系の中で、己の生命を巡らせているのが人類である。その巡りを外れたところで人類は生きてゆくことはできない。
耕すことなく貪り食べるのではなく、1人ひとりのすべてのものが農する自給自足の道。それを彼は「蓑虫革命(都市と絶縁して、自給自足の暮らしに突入すること)」だと名づける。だが農といえども、化学肥料を使い、大型機械を導入し、さらなる大型化を目指す農業、それは都市の収奪の機構の内に組み込まれ、その策略に絡めとられてしまった農であり、滅びの道に与していることに他ならない。
わたしたちは都市を滅ぼす以外に道はない、都市化という構造そのものが、地球を人類を都市を滅ぼしつつあるのだから。都市はその責任は、科学文明や工業国家のせいであると主張してやまないが、都市そのものがその構造上そうなのである。
「原子力発電を得るためには……石油が必要であり、……石油の毒素によって都市が人間の住める環境を失い、……石油争奪のために全面核戦争が勃発する」
「核廃絶を叫ぶなら、何よりも先にその温床であり張本人である都市そのものを解体しなければならない」
「食糧の途絶こそ都市を瓦解せしめる最上の手段である」
都市を捨てて、自然循環型の自給自足の農へと人々が向かうことで、都市への食糧を途絶し、そのことによってさらに人々が農に向かうことで都市が滅んでゆき、わたしたちの世界の根源的な変容が推し進められてゆくという視座には、とても元気づけられるものがある。そして農のそこには、いのちの巡りがあり、いのちの不可思議があり、生命のダイナミズムがあり、生の息吹に満ち満ちた世界がある。カミ、大自然の摂理とストレートに直結した暮らしがある。半農半X(農をしながらもう一つ何かする)くらいが人類の身の丈に合っているのではなかろうか。
だがフクシマの原発事故を経験しながらも、アベノミクスに煽られて、原発の再稼働へと突き進んでゆくそのように、わたしたちは余りにも深く都市の論理に巻き込まれている。その中で、都市の虚妄に気づいて都市を捨て、自然循環型の自給自足の農を選び取る若者たちが出てきている。自らの生き方として、大自然の摂理と共に生きようと。妙なる畑に立とうと。
翻ってみるに、その姿は1960年代、都市からドロップアウトし、貨幣経済からも離脱して、魂の解き開かれた大自然の摂理のところに自給自足的生活の場をおこうとしたカウンターカルチャーの先駆的ドロッパワー(ヒッピーや50年代のビートニック)たちの生き方そのものではなかったろうか。そうしたヒッピーから反体制的活動へと政治化していったイッピー、そしてコンピューター社会へ踊りで出ることによって未来的都市を創出したヤッピーたち。そうした展開によって都市的認知を得てきたカウンターカルチャーの文化があるけれども、それは紛れもなく都市に絡めとられてしまったカウンターカルチャーの姿といえるのではなかろうか。
都市からドロップアウトして、自給自足の農をはじめ、都市を兵糧攻めにする。それは簡単なようで、困難な道のりである。
それは文明の在り方の大転換であり、支配や階層化の解体であり、持続可能な文化・文明の在り方を探し、皆農のために土地私有制の撤廃や貨幣経済の廃止などなどの多くの困難な問題と直面しなければならないだろうからである。
その道程は、中島正が一つの悪しき例として挙げたカンボジアのポルポト政権による強制的、恐怖的な農村社会への回帰でも、後に安藤昌益の研究家となる寺尾五郎がかつて称賛した中国の文化革命の、文化の破壊や都市の人々の強制的な地方への放てきなどによって達成されるとは思えない。それは、この宇宙存在者としての人の本来の在り様の、〈在る〉ことの不可思議に目覚めることによる、人類の、都市や文明に対してもつ世界観、価値観の大転換に基づく、意識や魂の変容なくしては、決して成し遂げられようがない。それらの意識の変容に支えられてはじめて様々な制度や文明の転換がなされてくることになる。
今再びの、魂の解き開かれ(本来の生の開示、意識の変容、価値観の転換)が問われ、大自然の摂理の中にその生を展開してゆくことが、人類の問題として希求されている。そしてそれは、大いなる生の歓喜の中にこそあるものなのだと知られるはずである。そこは農ばかりか、存在の不可思議に思いを馳せる生の妙味のあるところである。
少なくともこの資本主義体制のままでは、資源や人や地域や水や大気などをことごとく収奪し、汚染し尽して、この地球(人類)が間もなく破局の極地に立つだろうことは明らかである。そして人(個)ではなく、自然の方に、自然と人、人と人といった関係の総体である風土の方に主権があることもまた明白だ。主権在民(個)から風土主権(関係)へ……。
「都市から脱出してヒト本来の姿に戻り、辛うじて自立の生活に突入すべし」
28 いのちは消された 140号 2016-1-22
11月24日 昨日のわくわく田んぼの収穫祭に東京からはじめて車を駆ってこわごわと駆けつけてくれたペコちゃんは我が家に一泊。ペコちゃん、アメリカで心理療法を学んだ心と体のヒーラー。わかこの体をゆらゆらと揺らして、体の細胞から体のこわばりを解きほぐしていってくれた。体は水の袋。水袋をゆらゆらと揺らしてやればいいのだと。
11月26日 夕方暗くなってからバタバタとバイクの音。通常ならこんな時間に郵便の配達はない。マイナンバーの送付だという。そんなものはいりませんと、受け取り拒否して、差出人に返送願った。受け取り拒否しても、番号化はそのままだ。多くの人は騒いでいないけれども、個人情報の漏洩ばかりか、いのちが符号化されると、いのちは単なる番号となり、大変なことになる。いのちはいとも簡単に番号として消されてゆく。そうした世界がはじまったということだ。かつてユダヤ人を番号付けしたドイツでは、人を番号付けすることは厳禁だ。効率主義の果てに待っているものに、思いを馳せなければ。いのちは消されたのだ、この国からは。
11月28日 今、世界(人のつくりだした世界秩序、システム、世界観や理念などなど)は確実に崩壊に向かって雪崩落ちている。エントロピーの法則だ。だがいのちは、負のエントロピー、エネルギーを取り入れつつ、老廃物を体外に排出するという散逸構造をもって、自己を揺らがしながらよりダイナミックな秩序へと自己組織化してゆく力を持っている。このいのちの秩序にのっとったシステムの下に世界を構築してゆかない限り、世界は崩壊へのエントロピーの法則を免れえないことだろう。
11月30日 山に暮れ落ちてゆく冬の陽を浴びながら、足踏み脱穀機を出してきて、トーサンカーサンと足踏みしながら、乾燥してきた黒大豆を脱穀する。水木しげるさんが旅立っていった。93歳。40年ほど前、『チベットの死者の書』を自主出版したころ、彼の漫画の脚本を書いていた友人宮田雪の紹介で、ぼくの映画会に来てくれ、アニメのセルを頂いたことがあった。「6割か7割は妖怪に憑りつかれている」と。精霊の世界に生きた人だった。ラバウルの戦場で一人生き残り、なぜ国家のために死ななかったのか、敗残兵とののしられた水木しげるさん、国家は個人の積み重ねの上に作り上げられた妖怪だとも。
12月1日 山際の道を散策していると、真っ赤に熟れたヒヨドリジョウゴの実がたわわに稔っていた。ヒヨドリの好物。一枝を頂いて、二階の天井から吊るした和紙のランプシェードに絡めてみる。午後、西日を浴びて汗をかきながら足踏み脱穀機を駆って白大豆の脱穀。これで味噌や豆腐など一年分の大豆が収穫されてゆく。
12月5日 豆腐作りのワークショップが「ぴたらファーム」であるというので出かける。古民家の広い、かつては「たたき」だったが、今はセメント張の玄関での実習。奥のやはりたたきだった台所には友人のイエルカが作った大きなストーブが据えられて部屋を暖めていた。豆腐マイスターの工藤詩織さんの指南。ぴたらのみんなで育ててきた色々な種類の有機大豆をブレンド。沖縄の島豆腐づくりに準じた、豆乳を先に搾ってから煮るやり方で、豆の種類の選び方やにがりの濃度やその入れ方など、ネットでは判らぬ妙味、教わるところが多かった。そして作ったばかりの暖かいゆし豆腐、綿漉し豆腐に、オカラを揚げたクッキーを頂く。旨みと甘みのある豆腐だった。
12月7日 先日伐採した檜と桑の木の薪割り。西日をいっぱいに浴びて暖か。市内にまた県内最大規模のソーラー発電所が稼働。もうあちこちで山の木々が伐採され、至る所ににょきにょきとソーラーパネルが立ち上がっている。日本で一番日照時間が長いということでの乱立ながら、ここまでくると自然とエネルギーと人との関係の在り方を考え直さなくてはならないと思わせられてしまうことしきりだ。
12月8日 冬枯れの林が陽をいっぱいに浴びて輝いている。日米開戦から74年、同じ齢を重ねてきた。
12月12日 あっという間に夕暮れ。冬至十日前、一年で一番日没が早い。75年に日本列島弧を駆け抜けた、コミューンとコミューンをつなぐ運動としての、ミルキーウェイ・キャラバンからの、40年を振り返る原稿を「なまえのない新聞」1月号に。「わたしたちは存在論の変容を体験してきたはずだ。存在は〈個〉にではなく、関係そのものにあり、関係こそ存在だと、関わり合いが世界をつくると。そうした相互依存する関係の場において〈われらが世界〉を共創することによって、はじめて世界の変革は立ち上がってくる」のではと。
12月22日 7時になってやっと朝日が射し込んでくる。冬至。陰極まって、陽に転じる。
12月27日 朝8時に出発し、高速道をひたすらに走る。思いのほか帰省ラッシュはなく、日没前に無事鳴門に着く。母も仕事場にいて、何とも元気。間もなくかぞえで98歳。なおも文楽人形作りの現役。
12月30日 臼ならぬ餅つき機でお餅つき。三臼を搗き上げる。そして正月用の青空市に出かけて、正月さんのお飾り用の、しめ縄、うらじろ、だいだい、ゆずり葉、雄松、雌松、柳などを買い求めてくる。うらじろ、だいだい、ゆずり葉でしめ縄を飾り、柳に三代目の祖父が作った鯛やお亀や打ち出の小づちなどの飾り物を吊るして、正月さんを迎える神棚にお供えし、それに「にこにこ、中むつまじく」(2+2+6)と竹ひごに串刺しされた10個の干し柿、魚の干物、そして両端に雌雄の松を飾る。最後に父がつくった三番叟の文楽人形を出してきて飾ると、我が家の正月準備が整う。
1月1日 恵方よりお正月さんを扇子にお載せして、神棚に迎え、雑煮を供えて、お正月だ。明けましておめでとうございます。そして白みその雑煮にお節をみんなして頂く。暖かな正月。みんなで裏山の氏神さんに詣で、大きな楠の木の神木の前で恒例の家族みんなでの記念写真。そして山を巡ってお墓参りに。こうして2016年の年明け。今年が新たな芽生えの年となりますよう。
1月4日 ふるさとの海に会いに行った。青く青く、紺碧に、どこまでも広がっていて、白波返すふるさとの海。ただただ、そこに立つ。母なる海がある。ことばを絶して立つ。ただただ〈在る〉。
1月5日 水仙の花咲く春がある。ヨシダ・ヨシエが昨日鬼籍に入ったと。86歳。果敢に自らの生において、アナーキカルなアヴァンギャルドを生き切った人だった。丸木位里・俊の原爆図の絵をもって世界を行脚し、オルタナティブな未来の領域を拓きつづけた行動する美術評論家だった。彼がわかこについて書いた記事がある。
「おおえわかこという種子のなかの宇宙のなかで、銀河や星雲がとび交い、湧き立つような雲がながれ、風が吹き、つまり、魂の気象が観測されると、手が解き放たれたようにうごき、宇宙光線のような自由な線を描きはじめる。これは肉体ではなく、精神のアクション・ペインティングではなかろうか。……おおえわかこは、絵の技法を教わったわけでもなく絵描きという職業を選ぼうとしたわけでもなかった。彼女は、自分の生の、たぐいまれで真筆な観察者であった。その生は彼女の宇宙観とともに膨張し、感性のやわらかい草をはぐくみ、その先端が空気と触れあう表現をみちびきだしたのである。彼女は手が自然に自分からうごきだしてしまうくらいに、描かなければいられなかったのである。彼女の魂と感官を解き放つ、おいしい空気が、それによってすべりだす絵筆のうごきにとらえられて、プライウッド(ベニア板)や和紙のなかに、神のことばのように姿をあらわし、形象化されるのである」(『手探る・宇宙・美術家たち』樹芸書房 一九八九年)
1月6日 新しい「スターウオーズ」が話題をさらっている。星間を天がける戦闘に魅了されている〈わたし〉がいる。宇宙へと飛び出していったその時代においてもなお戦闘に明け暮れる人類の性、欲動。年明けて、イランとサウジアラビアの、シーア派とスンニ派の憎悪の炎上。その果てにあるのは壊滅しかないにもかかわらず、欲動に燃えてしまうものがある。原爆体験を経てもなお、数々のホロコーストを経てもなお。この日、北朝鮮、水爆実験という。正義に陶酔した、美しい戦争がある。正義もまた人の性の産物。
1月7日 七草なずな、唐土の鳥が渡らぬ先にトントントン……と、春の七草を刻み、すり鉢ですって、豆腐と和えて、七草の和え物をつくり、お正月さんにお供えする。
1月13日 茶を頂きながら、宇宙を一呑みする。一即多、多即一の宇宙のすべてが茶の一椀のそこに包み込まれてある。星々がかがやき、壮大な宇宙の孤独があり、そしていのちの鼓動がある。こどもたちの歓声がある。〈在る〉ことの不可思議がある。
宇宙を抱え持つ〈わたし〉。〈わたし〉の内に宇宙があり、宇宙が〈わたし〉である。
〈わたし〉がなくなる(無くなる、亡くなる)ということは、〈わたし〉が無くなるのではない。世界が無くなるということなのだ。〈わたし〉がなくなるということは(共に無くなって)、〈わたし〉と世界が一つになって、無境界となることだ。
魂が閉ざされ、世界が閉ざされている。魂が解き開かれ、魂において、魂が語られなければならない。
〈わたし〉の死をとおして、魂は解き開かれ、はじめて生は明かされ、色即是空、空即是色のところにかがやき出てくる。そして花粉の中心(生の創造の只中)を歩いてゆく。
1月15日 粥を炊いて、刈り取ってきた目突き茅の箸を添えてお正月さんにお供えし、その後扇子にお正月さんを乗せて、お送りする。そしてわれわれも30pばかりの目突き茅の箸で粥をいただく。目突き茅などというのは、おそらく鬼の目を突くということなのであろう。これで正月の行事は終わり、しめ縄、門松などの正月飾りを外して、庭でささやかなどんど焼き。
1月17日 徳島で自然農実践者による妙なる畑の会の全国研鑽会があり、出かける。八ケ岳からも三井さん夫妻他4名も来て、全国から250名ほどが集まていた。テーマはお金と自然農。生き方としての自然農を問いながらの模索がつづいている。消費者の顔の見える範囲での宅配などなど。そしていのちを頂く、いのちに生かされる、いのちの理を我が心とする……自然農とワクワク、ドキドキと向かい合う人々の鼓動が伝わってくる。それぞれの人々の内に芽生えた感動が少しずつではあるが世界を変えていっている。自然農の提唱者川口由一さんの出席はなく、自然農も新しいステージに入ってきたよう。
1月18日 そして今日のテーマは未来に向けて。自然農と文明、機械や車やコンピューターなどとの関わりの在りどころはどういうところにあるのだろうか。自然農を生きることが答えを生きることになるような、そこにすべてを(文化や文明をも)包み込んだ自然農の在り方……。一昨日だかに見た番組で、奄美のノロが、神高い、つまり神が近くにいるのは、自然があるからなの。自然がなくなれば神もいなくなると。そして自然と分かたれた神は狂気の道を歩んできた。今一度問うてみるべきものがそこにある。
2016年新春特別号
ヤポネシア・フリーウェイ
なまえのない新聞 2016-1・2月号 寄稿より
キャラバンからいのちの祭りへ、そして今
――存在は〈関係〉の中にあり、今世界は変革の時代にある――
ミルキーウェイ・キャラバンのあった75年の頃、ぼくは国立市にいて、水木しげるや真崎守などの漫画の脚本を書いていた宮田雪と共に「オーム・ファウンデーション」という場をもっていた。
それに先立つ71年、造反有理に揺れた70年安保闘争が終わった後、ぼくは当時まだ誰も関心を示さなかったインドへと旅立った。そこではこれまでの生が引きはがされて、大いなる生が立ち現れ、魂の故郷に誘われるかのようだった。そしてカトマンズで出会った『チベットの死者の書』は、死を通してはじめて解き明かされる生のリアリティをぼくの前に突き付けてきた。帰国後、一からチベット仏教を学びながら、翻訳して、「名前のない新聞」のあぱっちが勤めていた印刷会社を介して印刷してもらって、手作りでチベットの経本スタイルで和綴じして自主出版し、「名前のない新聞」49号(73年)で取り上げてもらった。
その普及版やインドでの旅日記が講談社から出版されたすぐ後に「オーム・ファウンデーション」を設立(74年)。そのためコミューンではなかったものの、インドからカルチャーショックを受けて帰ってきたけれどもまだ自分の道を見出せない若者たちが、入れ代わり立ち代わりして一緒に住んでいた。そこには有機野菜の引き売りをはじめたばかりのナモ商会もやって来たし、近くには諏訪之瀬島の観光開発を止めようとヤマハボイコットを闘っていた部族のC.C.C.大使館(西国分寺)があり、よく行き来した。その闘争のドキュメントに、後にホリスティック医学の分野を開拓する上野圭一による映画『スワノセ・第四世界』(76年)がある。そしてぼくと相前後してアメリカに出かけていたサカキナナオも帰って来て、詩の朗読会が開かれたりして、部族のメンバーとの交流がはじまっていった。
ミラレパの出版記念会でのオームファウンデーションのメンバー
「ぼくらは宣言しよう。この国家という社会の内にぼくらは、いま一つの、国家とは全く異なった相を支えとした社会を形作りつつある、と。統治する或いは統治されるいかなる個人の機関もない、いや?統治”という言葉すら何の用もなさない社会、土から生まれ土の上に何を建てるわけでもなくただ土と共に在り土に帰ってゆく社会、魂の呼吸そのものである愛と自由と知恵による一人一人の結びつきが支えている社会――ぼくらは部族社会と呼ぶ。……」(「部族宣言」)
国家から離脱したところに自分たちの世界を築いてゆこうと、諏訪之瀬島に「バンヤン・アシュラマ」を拓くことになるナーガこと長沢哲(42年生まれのぼくと同世代)によって起草されて『部族』新聞(67年12月)に高々と掲げられたこの「部族宣言」が出された頃、ぼくはニューヨークにいて映画を作りながら、サイケデリック(魂を解き開く)革命の只中にいた。当時のことについては『魂のアヴァンギャルド――もう一つの60年代』街から舎刊を参照して欲しい。そこでは魂が解き開かれて新生の息吹を得た若者たちが、分断された個の回復を希求して、生の統合された場としてのコミューンを作り出そうとしていた。当時のコミューンに滞在しながら描かれたアリシア・ベイ・ローレルの『地球の上に生きる』は今も版を重ねている。ぼくがニューヨークから帰国した69年には「エメラルド色のそよかぜ族」を名乗る部族のコミューンが国分寺のアパートにあって、かつて映画を作っていたマモを訪ねたことがある。宮田雪とはじめて出会ったのもこの頃で、アンダーグラウンド映画運動の中でのことであった。
これまでの共産主義的共同体や地域共同体とは異なる、より生の統合された精神の息づく共同体がぼくたちの内に希求されていた。ぼくたちは精神を生きている、精神生活をしているものに他ならないからだ。そうした時、石神井村コミューンを開いていたトモやキコリたちの呼びかけで、沖縄から北海道までヤポネシア(日本列島弧)を縦断して若者たちのコミューンをつなげてゆく「ミルキーウェイ・キャラバン」が提唱され、75年4月20日の御殿場の日本山妙法寺での「花祭り」をオープニングとして、沖縄から北海道に向けて歩きはじめられた。
しかし最終地点の北海道で、その締めくくりとなる「宇宙平和会議」を開く場所は決まっていなかった。そこでぼくが場所探しに一足早く北海道に飛ぶことになった。まず北海道出身の宮田雪の紹介で北大の植物学者に会った後、旭川の「空想旅行館」やシロの家や「ひこばえ」に立ち寄り、そこでは宗教コミューンとでもいえる日本山妙法寺の藤井日達上人とも出会った。
ぼくが借り受けていた国立の家主が日本山妙法寺に出家し、やがて宮田雪がその信徒となって、そうマモも出家して、ぼくたちの廻りには日本山妙法寺の嵐が吹き荒れてもいた。そしてインドを経由して覚醒とか目覚めとか悟りといったスピリチュアルなものへの欲望が渦巻いていた。星川淳(プラブッダ)が訪ねてきたのもこの頃であり、やがてインドからラジネーシュの『存在の詩』を持して帰ってきた。後にトランスパーソナル心理学のジャンルを切り拓いた吉福伸逸がアメリカから帰って来て、カウンターカルチャーに斬新に切り込みはじめ、共に精神世界というジャンルを創出したのもこの頃である。かくして存在の神秘がぼくたちの前に解き開かれはじめ、世界は未知の神秘に満ち満ちていた。
「オーム・ファウンデーション」で刊行していた75年8月に出された機関誌『AUM』7号にはキャラバンのスタートの様子と宇宙平和会議の予告が掲載されている。
当時の空気を知るために機関誌7号の目次を紹介しておくと、真崎守の表紙で特集T目覚めへの旅として「ジェツン・カンブム――チベットの偉大なヨギ―・ミラレパ」おおえまさのり「マハームドラーの詩」プラブッダ「トナールとナワール呪術師ドンファンの宇宙」吉福伸逸 特集Uブックレビュー「タサハラ・パンの本」青柳昭子「タートル・アイランド」ゲーリー・スナイダー「印度からの手紙」石谷政雄などとなっている。
旭川から友人の兄が暮らす津別に移り、彼の紹介で町の小さなスキー場の管理小屋に宿泊させてもらいながら、場所探しをしはじめた。その合間にチベットの詩聖ミラレパの紹介記事を北山耕平や青山貢が編集していた雑誌『宝島』に寄稿したりしていた。そして阿寒湖を見下ろす藻琴山山頂にあるキャンプ場を借り受けることができたのだった。
自分たちがこれから歩んでゆこうとしている道が明らかとなり、一つの新しい生命の潮流がそれぞれの心の内に確認され、それが高まった集まりとなったのではなかったかと思う。
このキャラバンの後には、また大勢の若者たちがオーム・ファウンデーションにもやって来た。出産間近だけれども家もないというカップルもやって来て、その頃はまだ知られていなかったラマーズ法の助産師三森孔子を探してきて、自宅出産をお願いしたりと、さまざまな出会いがあった。ぼくたちオーム・ファウンデーションの内にもコミューンへの志向があり、長野県生坂村の清水平というところに空き家を借り受け「AU Mアシュラム」としたが、維持できず、のちにナナオたちが長期に逗留したりするところとなった。
その後は西荻のホビット村の創設(76年)に関わったり、若者文化をフォーローしていた東大の社会学者高橋徹の呼びかけで『ホールアース・カタログ』の日本版を作ろうと、当時まだ東京にいた山尾三省、プラブッダ、キコリ、あぱっちなどともに編集会議が幾度も開かれたが、出版には至らず、それはのちにあぱっちたちがまとめた『やさしい革命』に結実していった。またオーム・ファウンデーションでは、『ミラレパ』の翻訳と手作り本による自主出版に取り組み、装丁横尾忠則による経本版の本を出版(76年1月)し、そのイベントを開きもした。しかし借り受けていた家が家主の日本山妙法寺への出家といったことと相まって、日本山妙法寺の道場的なものへと化してゆき、77年はじめにはオーム・ファウンデーションを閉じることにしたのだった。それは、コミューンなるものの、スピリチュアルなるものの一つの大きな夢が動いた時代だった。
それらの潮流がさらに大きなうねりをもって再び立ち現れてきたのが、チェルノブイリ原発事故から励起されてきた88年8月8日を中心にして八ケ岳で開かれた「いのちの祭り――No Nukes One Love」(通称「88」)だった。これだけ大勢の若者たちが、新たないのちの文化をそれぞれの場で生きている!!それは大きな希望だった、新たな世界創出への。
そして今日、福島原発事故後の、放射性廃棄物の処理も帰還も廃炉もままならないままの原発再稼働、言論封殺、多様性の排除、特定秘密保護法の制定、マイナンバーによる生の統制、武器輸出三原則の撤廃、そして安保法制の成立から辺野古の新基地建設へと無謀にも新たな戦争へ向かって切られる舵。世界に目を向ければ地域紛争やテロやテロとの戦い、そして資本主義市場経済や民主主義といった私という〈個〉に主権を見る人間中心主義のシステムの機能不全――世界は崩壊へ向かって突っ走っているとしか思えない。夢や希望が、いのちが次々と失われていっている今、わたしたちはわたしたち自身の在り方を真に問われているのではなかろうか。
キャラバンの時代から生を追い、神秘を追いしてきて掴んだものは何だったのだろうか。神秘がどこかにあるのではない。わたしたちが今ここに〈在る〉ということが神秘なのではなかろうか。神秘であり謎である〈それ(在る)〉は、答えがないから神秘であり謎であり、語りえぬものについては沈黙すべきであり、深い畏敬の念をもって〈在る〉ことであろう。
全村避難している飯館村の、核災前の人々の暮らしを撮った管野千代子の写真に、雪の野で漬物用にと干す大根を持って立って無垢に笑っているおばあちゃんたちの写真がある。そのおばあちゃんたちの写真を見ていると、無分節の一(いつ)から生まれ、無分節の一に〈在る〉、そんな〈在る〉が体感される。そんな〈在る〉の中でこそ生を全うしてゆくことができる。阿弥陀(無量寿光仏)が大根を持ってほほえんでいる。草木虫魚の祈りに支えられた〈いのち〉がある。彼岸とつながりあった有縁の世界。風土主権(関係性の総体である風土に主権があるその在り方)。そして(つながり合いに支えられた)大安心がある。
わたしたちは存在論の変容を体験してきたはずだ。存在は〈個〉にではなく、関係そのものにあり、関係こそ存在だと、関わり合いが世界をつくると。そうした相互依存する関係の場において〈われらが世界〉を共創することによって、はじめて世界の変革は立ち上がってくる。存在は〈関係〉の中にあり、今世界は変革の時代にある。
27 どこへ行こうというの? 139号 2015-11-23
9月27日
アキアカネの色が鮮やかな茜色になってきた。間もなく里に下りてゆくのだろうか。ススキの野に大きな満月が上がってくる。中秋の名月。月見団子を作って、お供えする。夜半、煌々と月、中天にあり、うろこ雲。今年は国連の定める国際土壌年だという。水や風による浸食や地下水の汲み上げによる塩害、化学物質による汚染などで土壌の劣化化が著しく、世界の農地の38%が劣化しており、これからの食糧供給が危ぶまれると。その対策として不耕起農法が注目されているという。不耕起にすることで土壌が草に覆われ、酸素をすき込まないことによって多年草の根などによって蓄えられた土中の有機物の減少が抑えられる。が、雑草対策のために除草剤を多用する必要があり、作物の耐性化のために除草剤とセットにされた遺伝子組み換え作物の栽培に頼らざるを得ないことになると。いやとんでもない。不耕起で無農薬、無肥料の持続可能な農法がある。そのことの意味が、文明論的に、問われてくる時がきたようだ。
9月30日 写真家の仁さんが、岡谷の絹織物の博物館での取材を終えてやってきた。養蚕から織りにいたる絹の技術を滅びる前に記録しておこうと、この二年間養蚕農家や富岡製糸工場などを巡って取材。来年の5月頃には、こどもの友シリーズで出るという。福島にも3・11直後から、立ち入り禁止区域内に入り込んで取材。そこでは牛たちが餌を求めて首を突き出したまま餓死していた。しかしそれらの写真は立ち入り禁止区域内の写真だということで、メディアでは取り扱ってくれなかったという。メディアの自主規制。だがそれ以後も定点取材をつづけているという。かつてはカンボジアからタイ、インドからチベットなどを綿密に時間をかけて取材してきた人だ。
10月1日 午後から雨模様となり、爆弾低気圧が近づいてきている。先住民の出自をもつボリビアのモラレス大統領は国連において、国連憲章や世界人権宣言における「基本的人権」を「母なる地球」にも認める「母なる地球の権利」宣言を採択することを呼びかけているという。風土主権へと向けて開かれた道がここにある。そして彼は気候変動の大本に、環境破壊を顧みない資本主義経済モデルの問題があるという。「資本主義は不平等と同義語であり、母なる大地(地球)の破壊と同義語だ。資本主義が死滅するか、さもなくば、地球が死滅するかだ」と。
10月4日 秋晴れの中、菊ちゃんが北野天神でお神楽を舞うというので出かける。神楽の笛の音が聞こえてくる。大木の栃の木が境内を被い、天空の枝から幟が降りている。振る舞いのおでんと甘酒をいただきながら、天岩戸開きの一連の舞いを見る。菊ちゃんがオオトリの、天岩戸を開く怪力のタチカラオを勇ましく舞ってお開きとなる。境内で10数年ぶりの、懐かしい顔々に再会。なぜか神社の境内には時空のとどまりがある。
10月9日 わかこは朝からトントントントンと胡粉を叩きながら、膠と合わせて、溶いている。貝の粉の胡粉はトントントントンとよく叩いて溶いてゆかないと、塗ったときにひびが入ったり、泡ができたりする。それでトントントントンと叩きながら溶いてゆく。先日来彫っていた翁やおかめの面の彫りができあがってきて、これから胡粉塗り。午後畑の草刈と薪の整理。明治になって日本に併合された琉球。第二次世界大戦で捨石とされ、アメリカによる占領下からの独立においても同胞とも思われずに捨て置かれ、その後も日本国が日米地位協定などによる隷属化を受け入れつづけていることを見るなら、理不尽な米軍基地の撤廃には、自らの主権を回復する琉球の独立の道しかないという『琉球独立論』(松島泰勝)はすごくまっとうに思える。「人間としての尊厳を回復するために、琉球は独立しなければならないのです」(同上)
10月16日 我が家の池でグングンと成長して茂りを広げた真菰。真の菰でマコモ。かつてはマコモを編んで菰としていたそう。葉には血液の浄化作用があり、その真菰茸は中華料理の食材として重宝される。で真菰をかき分けてよく見ると、タツノオトシゴのような真菰茸が20本ばかりにょきにょきと出ている。さっそくに刈り入れる。夕食は真菰茸のアラカルト。真菰茸と発酵大豆のテンペを合わせた酢の物、昨日作った豆腐の残りのオカラとの和え物、そしてキンピラなどなど。
10月17日 我が家の近くで青柳さんたちが進めている重度障碍者の子どもたちのための保養施設・〈夢プロジェクト〉あおぞら共和国を作ろうとのイベントに出かける。滞在用の建物もすでに三棟が完成し、一年前のオープニングにもまして大勢の人たちでにぎわい、友人のミュージシャンの子どもたちの初出演もあり、青空の中で共和国の夢が奏でられていた。
10月18日 抜けるような青空。いよいよ稲刈り本番。友人が二台の稲刈り機を持って来てくれ、9名で一反の稲を刈り、馬に干す。一反の稲が二段掛けの馬に掛かると壮観。青空をバックに輝いている。その前で今年もできた稲刈りを祝ってみんなで記念写真におさまる。みんな、ごくろうさま。天地に、稲魂に感謝。
10月20日 秋晴れがつづいている。高遠の「のらや」さんに送ったライ麦が、パンになって帰ってきた。粉にするためライ麦のゴミを取り除きながら、いい時間を持てたという。その間、ミヒャエル・エンデの『モモ』に登場する亀が一緒にいるかのようだったと。
10月24日 霜降。真菰をもってお月さんちに。日本語入力のできなくなったパソコンを診てもらう。これまで川の縁の小さな物置だった小屋の上に、貰ってきた廃材で四畳半の茶室が作られつつあった。もうすでに百年の古拙がある。名付けて「真笑庵」。お月さん、真に笑う人なのだ。
10月25日 朝、一週間干した稲籾の水分を測ってみる。10粒ほどの籾をぎゅっと砕いて、計測する。13・2、うんと乾いている。日陰の籾で15・4、これくらいがちょうどいい。明後日には雨もありそうというので、急遽午後から脱穀することに。岡さんが来て、脱穀機の点検、整備。そうこうするうちにお隣りの渡辺さんも駆けつけてきてくれて、一反分の脱穀。その傍らで、脱穀した後の藁を岡さんが藁切り機で切ってくれる。夕闇迫る中、無事終了。今年の恵みに感謝の時が満ち満ちてある。
10月26日 野は真っ白。初霜が降りている。突如、冬。残っていた田んぼの藁を切り終えて、田に撒き、水を入る。これで田仕舞い。今年も稲づくりができたことに感謝である。
10月27日 水を張ったふゆみず田んぼには、さっそくトンボが番って飛び、水面に尻尾をぴょんぴょんと付けて卵を産み、水鳥が餌をついばんでいる。
10月29日 昨日稲刈りした自然農の石白、もうずいぶん乾燥しているようなので、脱穀。
今年収穫した武川米(農林48号)を籾摺りし、白米に精米して新米を炊き、稲魂に捧げてから、頂く。一年の美味しさが満ちてくる。
10月30日 京都市に隣接する滋賀県の朽木で若者たちのお祭り空間「山水人(やまうと)」を主宰する祖牛さんが若者二人を連れてやってきた。松本のお寺での植木仕事が終わっての帰りだと。祖牛さんお坊さんでもあり、植木屋さんでもある。
10月31日 八ケ岳の頂にうっすらと初雪。安保法制、原発再稼働、辺野古移設、マイナンバーとひきつづいてゆく強権政治に、生きてゆく夢や力が砕かれつづけてゆく日々がある。
11月1日 凍てつく霜の朝。朝日を浴びながら、気を巡らせる。自然なるカミの力に満たされて、いのちの力が、スピリットの力が満ち満ちてくるひと時。かくして一日が生きられる。土手には檀香梅が黄葉して輝き、ツルウメモドキの実が割れて赤々と魅了する。ダウンしていたパソコン、やっと文字入力ができるようになり、今日、この一週間分のダイアリーを書いている。
11月2日 久しぶりに雨となり、冷たい一日。『ワタが世界を変える』(田畑健・地湧社)が送られてきた。千葉県の鴨川で棉づくりをしていて2013年に亡くなった田畑さんの綿とガンジーへの熱い想いが語られている。労働運動に身を投じていた田畑さんは、労働の現場で、資本主義も社会主義もその配分方法が違うだけで、共に生産性の増強をひたすら目指しているものじゃないか。それは何か違う。そんな時出会った綿が彼を変えていった。「誰もが自分の手足を使って必要なものを得るような生活をするようになれば、世界は確実に変わると思います。近代機械文明が一人ひとりの手から衣食住という基本的な生活の手段を奪ったのに対して、それを自分の手に取り戻すことから、誰もが飢えることなく豊かに幸せに生きられる世界が始まるのではないでしょうか。その可能性を、私はワタに見ているのです。」そしてガンジーの言葉が引かれている。「私たちがイギリス人を招き入れ、居座らせているのですよ。私たちが彼らの文明を受け入れたから、彼らはインドにいられるのです。」その言葉はこの現在のわたしたちにもそのまま当てはまる。
11月8日 立冬。里に黄葉が下りてきた。しとしとと冬の冷たい雨が降っている。わかこ、草たちに覆われた畑に出ては、実ってきた小豆の鞘を摘み、大豆の株を手折り、そして雨のこの日には鞘を裂いて、ころころと豆の選別をしている。こうして一年分の赤い小豆が笊にある。摘み取る一つ一つのそこに、ころころと選り分ける一つ一つのそこに、対話的な豊かないのちの時間が輝いて在る。にもかかわらずわたしたちは辿り着かない未来に向かって破滅的に走りつづけている。雨の一日の中で、時が止まって在る。
11月11日 縄文文化を今に生きているニューギニアの人々。精霊がいつも生活の中に生きていると。精神生活がそこに在る。
11月12日 芥さんのパートナー雲さんが10月24日に旅立ったと便りがあった。82歳。10数年間半ば植物状態となって床に伏し、彼が介護人生を送っていた。芥さんは30数年前、マリファナの有用性を巡って果敢に裁判を闘った人だ。アメリカでは今日医療への適用や趣味の喫煙が合法化される時代になってきているが、日本では未だ極悪人扱いで、小学生がマリファナを吸ったと大騒ぎだ。
11月13日 わくわく田んぼのメンバーの脱穀をみんなでやる。わくわくと共同作業はいいものである。人の輪があり、いのちの物語がある。だが廻りを見渡すと、何とも破綻に向かって突っ走っているとしか思えない人の世がある。人は何に向かって走っているのだろうか。走るべき何があるというのだろうか。パリで同時多発テロ。IS(イスラム国)が犯行声明。これほどの文明を発達させながら、何の解決策も持ち合わせない。破滅の袋小路に向かって走りつづけているばかりだ。
11月14日 一日中冷たい雨の中。町内にあるぴたらファームのTくんたちが、23日のわくわく村収穫祭に使う旗を持って訪ねてくる。スタッフやウーファー(旅する農業支援者)たちと共同生活しながら持続可能な農業の生活スタイルを作り出そうとがんばっている。山羊や鶏がいて、とても懐かしい未来の中で、農業イベントやワークショップなどを開いてもいる。農に向かう若者たちの熱い夢が語られつつある場だ。
11月21日 23日に行なわれるわくわく村収穫祭の準備にと餅つき用の黒米やもち米の籾摺りをする。今年も収穫祭ができることに感謝!!
26 蓮の香 138号 2015-9-24
7月28日 午前中大豆畑の草刈。そして午後遅くからふゆみず田んぼの草取り。わかこが誕生祝いにと、お隣の沙羅ちゃんからもらった東南アジア原産の「マルンガイ」の高さ10p余りの苗木。Hさんが来て曰くに、マルンガイはソマチッドという原初細胞を含み、ガンの免疫療法としての薬効もあるといわれているものだと。一昨年旅立った吉福伸逸さんの2010年のセラピーでの講義録『世界の中にありながら世界に属さない』(サンガ出版)が届く。吉福さんのセラピー観、人間観、世界観のコンパクトに詰まった一冊。幾つか言葉を拾ってみる。「徹底的にアイデンティティを破綻させて明け渡すことが一回でもいいからできると、思いっきりスライドでき、人はすごく存在の力がつくんです」「今、現代文明が必要としているのは、やることを止めることです。不安をベースにして、いろいろやっている、そのことをやめることがより健全な社会になる方向だ」
8月3日 この9月にオープンする韓国・光州のAsian Cultural Compleのアーカイブス部門へ、60年代にアメリカで制作したフィルムを納める契約とそのための新しいプリント制作とデジタル化の件で、交渉を進めてくれている映画評論家のHさんとSさんがやって来てくれる。60年代に映画の先端を走っていた前衛・実験映画の中にある光に魅せられた人たち。彼らとの出会いに自分の中の青春が蘇ってくる。
8月4日 わかこ共々漢方外来で鍼灸を終えて出てくると、何とそこにパン屋を営むSさん。彼女、若い頃は江戸時代からつづく糸操りの人形浄瑠璃芝居の役者(人形遣い)だったことがある。そのSさん、数年前に大腸癌の手術をし、2年ほど前会った時は大変そうだったが、とても元気そう。Sさん曰く、わかこさんはもうずっと前から向こうに往ったような人だから、そういう人は大丈夫なのよ、と。この世で彼の世を生きているのだから。ここはもう彼の世。
8月5日 朝、犬のサンちゃんの散歩から帰って来てみると、ブルーベリーの木がざわざわと揺れている。風にしては変だなと思って近づいてゆくと、猿が一匹飛び跳ねて檜の木に駆け上がった。ぬ、猿と、上の畑に回ってみると、見事にトウモロコシがすべて食べ尽され、その奥にあった無花果の、昨年に実をつけて熟さないまま越冬して見事に大きく熟していたそれらも全部食べられていた。無花果もトウモロコシも口にできないままに、やられてしまった。この間、猿の出没はなく安心していたのがいけなかった。慌てて猿追いの花火を出してきて、バンと一発上げて、山に帰ってもらった。ふゆみず田んぼの二度目の草取りをやっと終える。これで後は実りを待つばかり。
8月6日 ヒロシマ原爆投下から70年、何も学ばない歴史がつづいているとしか思えない。
8月8日 猛暑ながら、もう立秋だという。吾亦紅が顔を赤らめ、萩が咲きはじめ、田んぼではジャポニカ種の黒米が一斉に穂を出してきた。やっと田の草取りが終わったので、今年はいっぱい実を付けてくれた梅の剪定、そして庭の草刈。午後、福島の子どもたちのための保養キャンプが近くの五風十雨農場であり、出かける。蓮やマコモが茂った田んぼの水路を流れてくる水を掛け合って、福島の子どもたちは思いっきりはしゃいでいた。
8月10日 朝8時半に家を出て、塩尻、名古屋、新神戸に出て、そこからバスで鳴門に3時に到着。96歳の母は張り子の虎を作っていて、なんとも元気。ひ孫のおねだりだという。ひ孫もお手伝いで、和紙を木型に張ったり、張った紙を木型から剥がしたり、胡粉をすりこぎでトントン叩いて溶いたり、すりこぎに付いた胡粉を工作用の包丁で削り取ったりと。工作用の包丁が危なげなく使えるようになっているのに驚く。
8月13日 家の裏手の山際にある墓参りにでかけ、そのまま母の実家の、四国八十八か所の3番札所内にある墓地に墓参りに。多くの巡礼者でにぎわっている。途中にある1番札所などは巡礼の出発点であるということで混雑の極みである。子どものころ自転車を駆って時々スケッチなどに訪れたそこ1番札所は、閑散として人っ子一人いなかったものだったが。
8月15日 快晴で今日も暑くなりそう。母が、水棚といって、祖先の霊を迎え、送るために立てて、その下で送り火、迎え火を焚くその水棚を片づけてくれという。送り火を焚くんじゃないのというと、ご先祖さんのお盆は昨日までで、昨日の夕方送り火を焚いてお送りしたからいいの、今日15日は人間さまのお盆だと。一日倒れて(休んで)、踊ってぞめく(騒ぐ)のである。かぶく(自由奔放にふるまう)のである。
8月17日 からからの大地に久々の雨、植物たちも一息入れている。戦後史論が盛んだ。わたしの戦後70年を振り返ってみる。それは深い心の傷と物質的・精神的な0からの出発だった。3歳になったばかりのわたしの、終戦直前の徳島大空襲の中を、母にはぐれて、まさにそこに迫った死を突き付けられながら逃げ惑った恐怖。それは20を過ぎるまで、夢に現れては、死の恐怖にわたしを陥れさせつづけたものだ。やがて死は生涯の一大テーマとなっていった。マトリックスとしての母なるものからの戦禍による強制的な疎外は、体制的、権力的なるものへの不信、反抗へとわたしを導いていった。そしてそれは物質的にも精神的にも何もない中からの、新しい価値観・世界観の創出に身を晒させてきた。その内発的な力こそが社会の変容を迫ってきた。今、社会や政治が先にあり、世界は行き詰まりに直面している。今再びの逆転――内発的な力こそ求められ、それが現れつつある。
8月20日 故郷の海に会いに行く。白波の打ち返す千鳥ヶ浜。魂の故郷がそこに広がる。それ以上に、存在に解はない。
8月21日 朝鳴門を立って、4時小淵沢着。田んぼにはもう稲穂が揺れ、野には吾亦紅、釣鐘人参、尾花、釣舟草、露草、待宵草、屁糞蔓……と秋の花が揺らいでいる。そして夜にはリンリンとすさぶ虫の声。
釣舟草
8月27日 雨つづきの中、やっと少し陽が射してくる。脱原発・非戦の「4・3ひろば」の通信にコメントを送る。午後、三井さんの畑に、イギリスから自然農の研修にやってきた若者に会いに出かける。カルカッタ生まれで、クリシュナムルティのスクールに通い、両親はムクタナンダの信奉者で彼の道場で暮らしているという。
8月28日 一昨日だかにヴェトナムの人たちの蓮にまつわる文化、蓮茶や蓮の実の料理などが紹介されていた。ヴェトナム人の愛する蓮茶――蓮の花びらと雄しべを茶葉に幾度もからめて、蓮の香を茶葉に移して、香りを楽しむという。華は終わったけれども、そう、蓮の実は今だと、古代蓮の実をふゆみず田んぼに採りにゆく。完熟する前の青い実をうてなごと採り、青い実を取り出して、ナイフで切れ目を入れて、皮を剥ぐ。と中から白い実が現れ、芯の方は緑色をしている。脾臓や胃によく、精神の安定の効用があるという。まずは蓮の実を茹でてみる。ほくほくとして美味しく、最後に少しばかり苦味が残る。次にこれを砂糖で絡めてみる。そして蓮の実ご飯に挑戦。塩をふりかけて食べると、豆ご飯のような爽やかな味。
8月29日 秋の長雨に、赤紫の釣舟のような釣舟草が茂りを広げて、すっくと艶やかである。釣舟草を前に、茶を点て、宇宙を一呑み。これ以外に何かあらん。――そこは人の究するところ。午後、お隣の信濃境の駅前にある、障碍者の支援団体が運営しているカフェ「夢屋」で、東谷さんが西表の写真展をやっていて、そのイベントに、大鹿村の内田ボブが来るというので、出かける。「時を語らう今・西表」として、かつてボブが暮らした西表の思い出や以後の彼の活動が語られながら、西表の田植え歌や島尾敏雄に触発された脱日本のヤポネシア (日本列島弧)を歌った唄などが歌われていった。沖縄復帰直後に入った西表では、ユイマールという結の結びつきがあって、その結に支えられて田植えがあり、一日の最後は歌を歌い踊ってお開きになったと。だがそれも、近代化する機械化農業の中で、あっという間に姿を消していったという。打ち上げは、東谷さんの自宅で、タイカレーを頂く。わかこが作って持参した、蓮の実を入れた梅ジュースの寒天閉じはなかなかの評判だった。ボブは明日、高遠に開かれた千葉の、放射能のホットスポット周辺の子どもたちの避難所開設のオープニングに、東谷さんは東京の国会前の安保法案反対集会に出かけるという。世界は滅びに向かっているかのように思われる。だがなお花粉の中心(生の創造の只中)を歩きつづけるものがある。
8月30日 雨の中、戦争法案廃案を求める全国百万人行動に参加するため、雨傘にわかこがメッセージを描いて、高速道小淵沢インター近くのスタンディングに出かける。プラカードを掲げて30名近くがいたろうか。東京では国会前で12万人のデモンストレーションがあったと。いのちをつかまえた母なるものたちの反乱こそ、今最も待たれているものかもしれない。この大宇宙、大自然、穂を垂れる稲、このいのち……、与えられたものは皆カミという他ない。カミなのだ。
9月4日 久々に、野の朝露に朝日が射し込んで、透明な青や黄色など虹色をなして輝きながら揺れている。虹の原。そして夜にはまたたく星々。
9月6日 雨の中、『標的の村』の三上智恵監督が辺野古を追った新作『戦場ぬ止(とうどう)み』の自主上映会へ。アメリカに窃取され、日本に窃取されつづけてきた沖縄の人々の姿が、アメリカに隷属し、主権を放棄してきたとしか思えない日本がある。
9月7日 今にも降ってきそうな空。朝早く渡辺さんが田んぼの様子を見にやってきた。一瞬、ひらひらと薄紫の小さな蝶が野を横切った。と、あれが「プロメテウス」(朝日新聞)に出ていたヤマトシジミです。カタバミを食べて世代交代が早いので福島の放射能の影響調査に使われている蝶です、と。バックヤードの草刈。草の間に延びたかぼちゃの蔓の間に大きな瓜が見える。以前貰って来てあった桐の木を首(かしら)の寸法に切っておいたら、わかこ早速に首を彫りはじめている。そして後で、手がしびれて動かないと。
9月11日 やっとやっと晴れ渡り、さわやかな秋から残暑へと。板垣雄三さんからのメールに、今起こりつつある人々の活動、それは「人類の新市民革命に向かっての着実な第一歩であるに違いない」と。
9月13日 八ケ岳で、非戦の、はじめの一歩パレード。声を上げつづける。数年前に植えたお茶の木がやっと大きくなってきたので、三番茶の摘み取りの季節はとうに過ぎてしまったけれども、四番茶なるものがあるというので、茶葉を、阿波番茶風に、新芽だけでなく少し下の葉も一緒にザクザクと摘み、蒸して、ごしごし力を入れて丹念に揉み、うんと弱火の釜で乾燥させて、味の方は分からないけれども、何とかお茶の葉が出来上がった。
9月14日 昨日作った茶葉を風に晒してからからに乾燥させてから、はじめて作ったお茶を頂く。フレッシュでさわやかな香りとほんのり旨みのあるお茶だ。これはこれでなかなかにいけそう。
9月17日 雨、雨の一日。国会では安保法案の特別委員会での総括質疑に向けての攻防。国会前では多くの戦争法案反対のデモンストレーションがつづけられている。そしてこの八ケ岳でも。
9月19日 この日未明、集団的自衛権を認めた安保法案可決。危機の中で見えてきたものがあるはずだ。絶望こそ希望である。声を上げつづけてゆく。上げつづけてゆくことだ。立憲主義とは何か、憲法とは何か、民主主義とは何か、主権の在りかはと、はじめて真摯に向かい合わされたのではなかったか。この70年間、新しい自分とのたたかいだった。終わりはない。雨が上がり、晴れ晴れとした秋晴れに薪を割る。
25 蛹 137号 2015-7-21
5月23日 わくわく田んぼの共同作業日。今年はじめて「ふゆみず田んぼ(冬期も湛水する田んぼ) 」にするところの畔作り作業と土手の草刈。午後、三井さんのところに、苗を頂きに。トマトや茄子、胡瓜、ピーマン、万願寺など、たくさん頂き、筍も頂いて帰る。早速に糠を一掴み入れて筍を炊いてから、豆腐を作り、5合ばかりの餅を搗く。
5月24日 Hさんから、韓国・光州のAsian
Cultural Compleへの映画フィルム収蔵の話があり、そのためにオリジナル・フィルムの点検、整理をする。未整理のまま40年近く置かれていたフィルム。青春の光芒がそこにある。
5月27日 今日も高原の夏。29℃まで上がる。標高1050mにある歯科診療所に。730mの我が家から登って来ると、さすがに涼しく、爽快。南アルプスも見渡せる。20数年前にはこの近くで10年近く暮らしていたものだ。帰り道、お月さん宅に立ち寄る。外に置かれていた板の下を覗くと、蝶の蛹がいっぱいぶら下がっている。それも下半分は金色に輝いている。まさに金、ツマグロヒョウモン蝶。
5月29日 ハワイの悦ちゃんから、伸ちゃん(吉福伸逸)の三回忌だと、わかこのフェイスブックに。人は夢を見ながら旅立ってゆく。そして夢そのものとなる。ブッダの夢は今も人の夢を舞わしめている。
5月30日 わくわく田んぼの作業日。どこまでも晴れ渡った快晴。田植えに備えて土手の草刈。乾燥しているせいか、思ったほど汗まみれにならず、11時すぎには終わり、苗床のビニールを外して片づけをする。いよいよ田植えである。アカショウビンの鳴き声がある。
6月1日 自然農田一畝の草を刈り、そこに庭の草を刈って敷き入れる。これで自然農田の田植えの準備ができる。
6月4日 自然農田の田植えをはじめる。芹などが根を広げた草地の田んぼに鋸鎌を入れて穴をあけ、そこに苗床から苗取りしてきた早苗を鋸鎌で数本づつ植え込んでゆく。ネイティブ・アメリカンの人々が母なる大地に感謝の祈りを捧げながら、大地を傷めぬように棒でわずかな穴をあけ、そこにインディアン・コーンの数粒の種を植えてゆくといったことを思い出す。大地を耕さず、肥料も入れず、もちろん農薬も撒かない。欲望と種子の独占の極地の遺伝子組み換え作物や自殺遺伝子を組み込んだターミネーター種子などとんでもない。それでいいのだと言えるもの。それがわたしたちの内にあるだろうか。そもそも母なる大地やカミ宿る早苗といった思いがわたしたちの内に共有されていようか。それらが、理念としてではなく、わたしたちの日常の中にあるだろうか。己の生の中にそれを生きえているだろうかなどと思い巡らしながら早苗を植えてゆく。
6月7日 渡辺さんから、箱苗で育てた早苗が余っているので、ふゆみず田んぼを一部軽く耕起して、田植え機で植えてみてはと提案があり、お願いする。「ぼんてんや」の仁ちゃんの個展が近くの新しく開かれた画廊であり、出かける。林と池のとてもいいロケーションにある。オープニングにと、仁ちゃんのヒマラヤン・カレーの振る舞いがあり、大勢の仲間たちでにぎわっていた。仁ちゃんの日本画もこれからが佳境かなと思わせる。帰ってくると、早速にも渡辺さんがトラクターを持って来て、ふゆみず田んぼの三分の一ほどを耕起してくれていた。
6月8日 釜無川(富士川)に流れ込む近隣の河川の水を取水してきて、全国一斉の河川の水質調査に参加。この8年ほどやってきているプロジェクト。CОDの値が高くなってきているのが気にかかる。お隣の渡辺さんと沙羅ちゃんが来て、昨日耕起してくれた田んぼに、箱苗の早苗を二条植えの田植え機で植えてくれる。4畝があっという間だ。渡辺さん曰く、田んぼは本来好気性のものだから、一つのふゆみず田んぼの中に不耕起の田んぼと耕起の田んぼがあって、それに古代蓮も植わっているというのは生態系の多様性があってとてもいいんじゃないですかと。
6月9日 夜来の雨で自然農田、ふゆみず田んぼ共に水が溢れ、植えた苗がすっかり水没している。急いで田んぼの水落としをする。不耕起のふゆみず田んぼを三日月鍬で軽く草取りしてから、ラインを引いて、苗床の黒米の苗取りをして、田植えをはじめる。一人で、午前と午後とで6筋を終えることができた。一歩一歩である。
6月11日 昼前、お月さんが、山椒昆布用にと、彼の実家のある吉祥寺の乾物屋で買い求めたという昆布を持ってきてくれる。で、お月さんと庭を一巡りする。実を付けはじめたアケビが絡まりつく卯の花咲く空木にはまさにちょうど蛹から羽化したばかりの、甲冑の緋脅しのようなヒオドシチョウが夢の飛翔へと向けて身をこごめていた。畑には大きく伸びたライ麦が黄ばみはじめ、池には白と紅の睡蓮が花を咲かせ、胞子が綿菓子のように絡み付いたガマの穂には羽化したトンボの抜け殻が怪獣の甲冑のようにしがみついていて、まさに一つのアートの世界。池の中には卵を背負ったコセオイムシ。
6月17日 最後の4筋を植え終わり、ふゆみず田んぼの田植えをほぼ終える。後は補植とホタルイの井草取りとなる。午後から怪しく曇りはじめ、激しく降りはじめる。やっと梅雨らしい雨。諏訪瀬島のナーガから、「春風めぐる」のお礼にと、ナーガが獲った冷凍の飛魚が届き、コンサートでお世話になった人たちに配って廻る。
6月23日 この日が沖縄戦の終わったとされる「慰霊の日」だと知ったのはごく最近のこと。2010年に訪れた読谷村の、村民80数名が集団自決に追い込まれたチビチリガマのことが思い出される。沖縄は今も戦時下であると思わずにはいられない。
6月26日 自然農田の草刈をするも、しとしとと雨となり、引き上げる。午後、雨の中、クマさん宅で、新しいパン窯の火入れのパーティーがあるというので、2mばかりにも伸びたライ麦を束ね、赤いリボンを付けて、お祝いに出かける。チェコ出身でヤギの毛の織物や陶器、そしてストーブを制作する長野県中川村に住む、長年の友人でもあるイエルカ・ワインが作った鉄製のパン窯がテラスにでんと据えられ、もう薪の火が入っていた。薪窯で、上の方がオーブンとなっている。その横に、年とともにいのち華やぐイエルカ夫妻。やがてそこにパンの生地が入れられていった……。安倍晋三を支持する若手・中堅国会議員が党本部で25日に開いた「文化芸術懇話会」で、出席した議員から「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなることが一番。経団連に働き掛けてほしい」との声が上がったほか、講師として招かれた作家の百田尚樹が沖縄タイムスと琉球新報をあげて「沖縄の特殊なメディア構造を作ったのは戦後保守の堕落だ。左翼勢力に完全に乗っ取られている。沖縄の二つの新聞はつぶさなあかん」などと発言。言論封じの独裁政権の時代思考になりつつある。
6月29日 どこまでも晴れ渡った快晴に、冷たい風が吹いている朝の田に、蕾を膨らませてきていた古代蓮が一輪咲いて、あの世がある。午後、新郷笙子さんの「服展」を見に小淵沢のアビアントへ。お洒落なカフェ・ギャラリー。夫君が昨年癌で亡くなったが、元気に復帰。新郷さんが墨書した布地を彼女の友人が仕立てた服たちが並ぶ。羽織ってみる。フィット感がとてもいい。夕方、ライ麦を刈り取った後に、鳩に知られないように、黒大豆と白大豆を蒔いてゆく。鳩に一度発見されると、出たばかりの二葉を徹底的に食べられてしまう。夜にはかまびすしいカエルの大合唱。
7月3日 雨の中、ブルーベリーが枝を垂れながらたわわに実っている。世がいかにあろうとも、「存在」というところから観るとき、存在の空性性(非実体性)を観、空の色(存在)に他ならないところを観るに尽きる。その輝き出る、空の、全肯定的生を生きることだ。雨の一日、籾摺りや鍬の修理、刈払機の点検などする。
7月5日 縄文蓮が咲き、古代米の早苗が育ち、甘茶が何ともきらびやかな身をふりほどいて咲きほこり、アゲハチョウたちが乱舞して、この世の浄土がある。身をこごめてコケ草の生えるふゆみず田んぼのホタルイを抜き、身を上げては古代蓮を眺めて、我が浄土に安らう。この世という浄土をこれ以上正義という名の戦場と化し、資源の争奪で破壊し尽くしてどうするというのだろうか――人類共滅。
7月6日 ぱらぱらと霧雨が降っている。ふと雨の中を外に出てみると、大豆を蒔いたばかりの畑から、丸々とした鳩が二羽、パタパタと舞い上がった。出たばかりの大豆の二葉を啄んでいたのだ。鳩に発見されて、ことごとく大豆の二葉を食べられてしまった一昨年のことが思い出され、これは大変と、たまたま家にあった雀除けのカスミ網を大豆畑に広げて張り、案山子の代わりに、傘を立ててみる。
7月9日 今日も梅雨空。『なまえのない新聞』が送られてきた。80年代に発行された『もうひとつの日本地図』(野草社)が取り上げられ、今再びのもうひとつの、わたしの日本地図を描き出そうという思いが綴られていた。クローバリゼ―ションの果てに、地域――老人からこどもたちまでの、互いの関係(縁)を持ちながら社会(浄土としてある有縁社会)――を作り上げてゆくことから世界は再構築されてゆく他ないことを見つめはじめている。
7月12日 ふゆみず田んぼの草取りを終え、糞尿を発酵させた液肥を田んぼに入れてやる。これで田んぼの作業も一段落。福島の避難を余儀なくされている仮設住まいのおばあさんが、「田の草取りがしてえ」と、草取りの日々のあったその時を懐かしそうに語っている場面があったが、草取りができることに感謝しなければならない。
7月13日 田んぼの減反面積の調査。減反と自由化の間で、米作りも揺れているが、お金だけでないいのちの価値こそ問われるべきもの。このところの晴天で軒下に干しておいた麦が乾燥してきたので、この前岡さんが整備していってくれた脱穀機を出して、脱穀することに。はじめてのジーゼル式脱穀機だったが、ライ麦、南部小麦、薄力の小麦と、何とか無事終えることができた。
7月15日 小暑。千葉で自給農をしていたYさん、3・11後移住先を探して日本列島を旅しつづけてきて、これで3回目の我が家の訪問。北九州で出会ったおばさん。病を抱えた人たちがおばさんに会いにやってくるのね、死にたくないと。そしてそのおばさんとの出会いの中で、その人の価値観がガラッと変わると、治癒が起こってくると。安保法案の強行採決――世界は今末期ガンの状態。その中で深い気づきが生まれ変容して、はじめて世界は変容へ向かうことができるのでは。蛹はその内で自らを一度融かし去って蝶に変身して飛び立ってゆく。
7月16日 遊休農地を市が整備して農業法人に貸し出して、次々と巨大な野菜工場が作られつつある。すでに17社が参入していると。国の補助事業費を使い、水耕栽培で年間を通して首都圏に野菜が供給される。林立するメーラー発電のパネルといい、ますますおかしくなってきている。アベノミクス。市内のローカル紙に地域の人々と共に「非戦」の意見広告を出す。
7月17日 台風が通過して、名残りの驟雨。一つ一つの音に、研ぎ澄まされた精神の踊るエリック・サティの音楽空間が響いている。吹き抜けてゆく前衛(アヴァンギャルド)の風。その精神の力こそ。
7月18日 〈存在している〉、〈生きている〉とはどういうことなのだろうか?
24 アミターバ 136号 2015-5-20
3月27日 やっと本格的な春日。韓国・済州島のクロンビとよばれる1.2kmにもわたる巨大な一枚岩の天然記念物保護区域に建設されようとしている海軍基地に反対する村人たちの闘いを、何年にもわたって追いかけた『クロンビ、風が吹く』の上映会に出かける。辺野古とまったく同じ状況がそこにある――愛をもって闘いつづけることだとそれはいう。
3月30日 一気に初夏。踏み込み温床づくりをしていると汗。阪田さんが、トイレのバイオマスタンクを作りたいと訪ねてくる。糞尿を土壌菌で発酵させ、その発酵した圧力で液肥が別のタンクに出てくる仕組み。作って10年になるが、いい液肥ができている。畑があればお勧めのトイレである。今日も豆腐作り。
4月1日 立花隆の臨死体験をたどる二度に渡る旅を追った中で、利根川進は、意識は脳内のネットワークの総体が作り上げているイリュージョンであり、人とはイリュージョナルな動物であって、イリュージョナルな文明を生きていると。これらのイリュージョンをリアリティとしてきた人類にとって、今や、それらのリアリティのイリュージョン性を見つめ直すところから再出発する以外に道はないところまで来ていると思われる今日の日本の、世界の情勢。この暖かさに、わっとヨモギが萌え出てきたので、ヨモギを摘んで、蒸し、小豆も煮て、餡入りのヨモギ餅を作る。
4月3日 本橋成一さんが長野県小谷村の、一時間半歩いてやっとたどり着ける山中にある障碍者たちと共に生きる「共働学舎」の暮らしを追った映画と写真集『アラヤシキの住人たち』のキャッチコピーに「それぞれがそれぞれの時間の中で米や野菜をつくり、ともに生きる」とある。それぞれがそれぞれの時間の中で暮らしながらともに生きる、そうした共同体、コミュニティを現わし出してゆきたいもの。ともに生きる場。
4月5日 清明。冷たい春雨の一日。雨上がりの夕刻、霧が山際にかかって、たゆたっている。この奇跡の星に生まれて死ぬことの奇跡に、絶句。
4月6日 朝霧に包まれている。このところの春雨に萌え出て、小さな青色のオオイヌノフグリ、黄色いイヌナズナ、白いタネツケバナやハコベ、ピンクのオドリコソウなどの花々がびっしりと野を彩っている。足の置くところもない。丁字桜は満開。そしてスミレに、桃の花も。田んぼにはヤマアカガエルのたまごが丸まってぷくぷくと浮いている。軒下にはツバメが。
4月8日 灌仏会。朝目覚めると、何とも雪。雪が降っている。雪が降り積もっている。桜の花に雪が凍りついている。岐阜の山中でチベット寺を建設中のHくんから、Kくんが3月29日に癌で亡くなったと。導師として招かれて、『チベットの死者の書』を読んで、霊を導引してきたとのこと。亡くなる前には、ぼくのドリームタイムを扱った『夢見る力』を読んでいてくれたそう。彼、Kくんは学生時代、ぼくが開いていた西荻窪のほびっと村での「いちえんそう」という講座に出入りし、八ケ岳に越してからもよく遊びに来ていた。いつもスーパーハイテンショナルな、超常意識状態で日常を走っていた。まさに意識が現実を作り出し、変容さしめていたというスーパーリアルな現実を生きていた。ただそれに外界の現実が追いついてくれないというのが難点であった。外界の人や物が意識のスピードでぶっ飛んでくれないのである。狂っているのはまさに外界の方だった。そんな彼が故郷の町に帰り、長年の夢であった、バックミンスター・フラーの考案したフラー・ドームの家を建て、フラー・ドーム建設の仕事をはじめたばかりだったが。彼は、永遠なるもの、超絶した真如の世界を希求し、その只中にあることを選びとろうと、選び取る以外にこの生はないことを見て取っていた。そう思われる。〈在る〉ということの霊性的事態を見つづけていたのだ。そうした狂気こそ。六分の狂気、四分の熱。
4月9日 寒の戻りがまだ抜けてゆかない。無分節のそこにおいて、存在の深まりを経験するということは一(いつ)なるものへと還っていくことである。世界は本源的に一なるものに他ならないから。本当の意味での革命とは(暴力によってではなく)(一の無分別知から湧き出てくる)コトバによって成される。
4月14日 全村避難している飯館村の、核災前の人々の暮らしを撮った管野千代子さんの写真展が近くの篠尾郵便局のギャラリーであり、出かける。雪の野で漬物用にと干す大根を持って立って無垢に笑っているおばあちゃんたちの写真がとてもいい。そのおばあちゃんたちの写真を見ていると、無分節の一(いつ)から生まれ、無分節の一に〈在る〉、そんな〈在る〉が体感される。そんな〈在る〉の中で生を全うしてゆくことができる。阿弥陀(アミターバ、一)が大根を持ってほほえんでいる。そんな大安心。祭りがあり、川遊びがありしたそれらの暮らしのすべてが奪い去られてしまった。それでもなお原発。午後、きらきら、そしてお月さんがやってくる。お月さんのトリックスター的笑いに、元気づけられる。中空の中に創造が立ち上がる気分。
4月15日 雨、雨、雨。久々の地域通貨「湧湧」の定例会。「わくわく村しんぶん」110号を発行――今再びのわくわく村をと。
4月18日 霜の朝。晴れ上がって、作業日和。わくわく田んぼのメンバーで集まって、苗代作り。苗床を耕し、土を細かく砕いて平らにして、種籾を播き、ぱらぱらと覆土して、燻炭を撒き、切り藁を敷いて、トンネルの支柱を立て、ビニールで被って、終りとなる。そしてはらはらはらはらと桜の散り行く木の下で、みんなで遅いお昼ご飯をいただく。今年もみんなの力でお米作りをスタートさせることができた。
4月22日 アースデイ。春の芽吹きと共に、いのちが巡っている。山吹が吹きこぼれている。山桜が萌えぐ木々の中で花を咲かせている――淡くそしてゆかしく。大地には麦草が萌え、オドリコソウが咲き乱れている。世界から立ち現れる世界そのものの〈コトバ〉をわたしたち(世界)は失ってしまっている。無境界の、無分節のそこから立ち現れるコトバ――その叡知、その世界。
4月23日 この二日ほどの暖かさでわっとコゴミが頭をもたげ、丘に登ると美味しそうにウコギの新芽が萌え出ている。ウコギ飯にと頂いて帰る。もう霜も降りないだろうと、じゃがいもの種芋を植え、冬の間ずっと家の中に入れておいたジャスミンを地に放してやる。
ヨモギも摘んで、ヨモギ餅作り。夕食はウコギをさっと塩茹でして刻み、熱いご飯に交ぜてウコギ飯。山椒の若葉を乾煎りして胡麻炒めにして醤油を差して佃煮。つくしの酢の物。コゴミの味噌和え。
4月25日 色とりどりの山桜のかすみ咲く谷に囲まれて、桜源境。豆腐作り。ネパールで大地震。多くの家屋や寺院の塔が倒壊しているという。そこはかつて70年代に夢を見たところ。そこには地球の上に生きることの意味が輝いて、生死の秘密を解き開いてくれる鍵があった。そして〈ある〉ということの秘境へと人を導いていってくれたものだった。それらがことごとく崩れ去っている。
4月28日 山桜はかすみ、谷はあっという間に萌えぐ新緑におおわれている。朝露の土手にトトキを摘み、お浸しにして頂く。大地へと還ってゆく時。一(いつ)へと還ってゆく時。永遠なるものへと還ってゆく時。人類共滅のこの時に、新緑の爽風が吹いている。夕方電話があり、長く年長の友人として親しく語り合ってきた早川薫太郎さんがこの21日に旅立ったと。また友が一人、去って逝った。40年近く前国立に住んでいたときに出会い、後に共にこの八ケ岳で暮らし、訪れてはその生きざまに驚嘆し、励まされる存在だった。何度も病に倒れては不死身のごとく奇跡の生還を果たして、死と再生のそこから輝ける生を掴み取ってきた人だ。魂の底からのアーティストであり、生というアートを生き切った人だった。その魅力で、自らアートしながら建てた館「人力飛行船」で、多くの若者たちを育てもした。とつとつと思い出が浮かんでくる。最初の出会いはぼくが『チベットの死者の書』を自費出版した時だったと思う。新聞に本の出版のことが紹介され、立川に住んでいたぼくのところに、本を求めにやってきて、そのすぐ後、ぼくが国立に越し、その町で早川さんはアーティストであると共に、「あほだら」というアーティストの溜まり場の食べもの屋さんをやっていた。以来40年近くなる。少年時代進駐軍のジープに片足を持って行かれ、誰も拾ってくれないので引きちぎられた足を自分で拾って消防車で運ばれた話から、破傷風や癌、そして沖永良部島でのサイキックな電話がかかってくるというおばあさんとの出会いの話、メキシコに出かけていた時の女性たちが力を持つフチタンという町の話、彼が面倒を見ていた女の子の描いた絵を掛けたら部屋に窓が開けたという青年の話などなど……尽きることがない。最後に会ったときは、彼の育った頃の国立周辺の美味しい木の実や草の実のあった話、天空から色や形を抽出してきた自身の話、そして「戻って来なかったら呼んでください。音や色になって戻ってきますから」と。美しいお花畑を夢見ながら旅立っていったと奥様の弁。人は夢を見ながら旅立ってゆく。そして夢そのものとなる。生あるときは生、死あるときは死、生からに死に移り変わるのではない――道元のことばが思い出される。生の深い洞察を持った感性の人だった。
4月30日 こんにゃくの花が見る見るうちにぐんぐん大きくなり、わかこの背の丈を越え、赤紫の花を開いて、中から白い粒粒の雄しべが現れ出てきて、何ともすごい、耐え難い臭いを振り撒きはじめた。蝿は何とも惹きつけられるようで、ぶんぶんと集まってくる。そして地には青紫のジゴクノカマノフタが、大地をぴたりと蓋をするように、咲いている。諸々の病の地獄の蓋を閉めてくれる薬草の故の名だという。
5月3日 二家族の孫たちが集合。その遊び戯れる姿はとてもいい。彼らには彼らの切り拓くべき未来があるが、どんな未来をわたしたちが受け渡してゆけるかひしひしと問われている。憲法記念日。風土主権への道は遥か遠く。
5月5日 心地よい新緑の林の中で、わくわく村祭り。森のお茶屋さんやパン屋さんなどのお店が並び、内田ボブと長沢哲夫の「春風めぐる」の歌と詩の朗読に心をゆらす。わかこも歌に身をゆだねて踊っている。そして富士吉田から駆けつけてくれた槇田きこりの、60年代から70年代にかけてのカウンターカルチャーのネット図書館構想に耳を傾ける。当時を生きた人々が少なくなってゆく今日、その記録をちゃんと残して次の世代に受け渡してゆきたいと。端午の節句、裏庭に繁茂する菖蒲を刈って菖蒲湯とする。
5月10日 爽やかな新緑の風が吹き抜ける中、谷津田の下の方の田んぼでは田植え機がコトコトと走って田植えがはじまった。午後Sちゃんが、はるばる長野県の大鹿村から。山ウドにワラビの煮付け、ヤーコンなどを持って来てくれる。大鹿村に住んで30年、今回の村議会選挙には新住民の中から二人の議員が当選したけれども、まだまだ「ヒッピーたちが出て行ってくれるなら、リニアが来てもいい」と言われるそう。なかなかに、なかなか。
5月15日 〈魂とつながること〉――魂とつながることによって、治癒が起こり、そしてまたいかなることが起きようとも、魂とつながることこそが生きることなのだ。魂とつながっていればこそである。魂がわたしを生きている。野には小さな花々が初夏のまぶしい陽を浴びて咲き乱れている――魂のなかに心が花咲いている。
5月16日 わくわく田んぼの作業日。苗床の雑草取り。苗も順調に10pばかりに延びてきている。これまでで一番雑草が少なく、田植えに向けて準備が整いつつある。田植えはもうすぐだ。
23 檀香梅 135号 2015-3-24
2月3日 真っ赤な朝明け。節分とて、大豆を水に浸けてすぐに取り出して乾かしてから、大豆を炒る。こうすると香ばしくて、柔らかい炒り大豆ができあがる。夕刻「鬼は外、福は内」と大きな声で豆を撒き、節分を祝う。いよいよ春である。中天に煌々と満月。
2月5日 細かな雪がさらさらさらさらと降っていたが、たいして積もることもなく降り止む。「イスラム国」の出来事、それは一つの地域のことが、一つの地域に限定されるのではなく、世界全体にわたって、人類一人ひとりの存在、意識が関わっていると改めて知らしめられる出来事である。地球の反対側の一つのことは、こちら側の一つのことに関わっている。そうした関連生起の中にいるわたしたちの姿を明らかに知らしめている。わたしの在り方、わたしたちの在り方こそ問われている、問われるべきである。夕刻から再びさらさらさらさらと粉雪が舞いはじめたが、夜半には晴れ渡り、17夜の月が雪を冠った野と森を浮かび上がせた。
2月6日 暖かく晴れ渡り、福寿草もさらに輝きを増して、大きく花弁を広げて、うれしそう。クマさんから「ねこまくらつうしん」を頂く。「こんな世の中のまま、後始末を子どもや若者たちに押し付けてバイバイするわけにはいかない」と。そして今年の春にはいよいよ念願のパン窯を作るという。
2月11日 一人ひとりが一人ひとりの〈在る〉ということの不思議に向かい合う。そこまで還って世界を見る以外に道はないのではないかと思えてしまう混迷する日々の出来事、世界の出来事。原理主義の彼方に人があり、存在がある。その〈在る〉を問うことから。
2月19日 雨水で春節。月歴の1月元旦。雨水の名のごとく、晴日の暖かな一日となる。
2月22日 お茶の水にある山の上ホテルで、1月に亡くなったバウさんこと山田和尚(わじょう)のお別れの会が開かれるというので出かける。フロンの回収運動から阪神淡路大震災での復興支援ボランティア組織「神戸元気村」の立ち上げ、そして9・11後にはグローバル・ピースキャンペーンを推し進め、2011年の東日本大震災には支援団体オープン・ジャパンの後方支援へと駆け抜けてきたが、この1月5日に亡くなったのだった。バウとはカヌーの舳のことで、カヌーを日本に広めた立役者でもあった。
会場にはバウさんの愛したカヌーが持ち込まれ、その上に花で囲まれてバウさんの写真が飾られていた。その彼が「自分をモデルにして『チベットの死者の書(バルド・トドル)』を世に広めて欲しい」と遺言して亡くなったのだ。バウさんの最後のプロジェクト。そしてオープン・ジャパンのメンバーが『バウの道中記――「チベットの死者の書」49日間の物語』を著して小冊子にまとめ、ちょうど死後49日目となる、2月22日の満中陰(49日の中陰明け)のこの日、会葬者に配られたのだった。
「今日の集いは、バウさんの残された『バウの道中記』を通して、〈生と死の大いなるいのちの物語〉が再発見されてゆく、そうした可能性を開くものになったのではないかと思います。救済されて成仏する弥陀の光をまさしく認識しながらも、敢えて衆生済度のために、死後49日目となるこの2月22日、再びこの世界に生まれくることを選び取った菩薩・バウさん。さよならではなく、新たな菩薩の誕生をお祝いしたい」と言葉を送った。田口ランディさんは、バウさんに憑依されたかのようにして、バウさんの「人の生は衆生済度にこそある」と魂の声を届け、また多くの参列者が、バウさんによって自分の人生が開かれたことを熱く語っていった。そして会の合間には、バウ自身さんが様々な局面で励まされてきたお気に入りの10数曲の歌が流されていった。「君は僕を夢想家と言うことだろう だけど僕はたった独りじゃない いつか、君も僕らといっしょになって 世界がひとつになって共に生きればいい……。」バウさんの最後のプロジェクトは、身をもって、新しい生の神話(大いなる物語)を現わし出すことにあったのだと思われる。新しい生の神話に支えられてこそ、次の世界が開かれる。バウさんの思いを、共に、形にしてゆきたい。今こそ、この(幻想としての〈わたし〉に固着したものの)流れを変える時だ。成人儀礼としての、(〈わたし〉の)死(バルド体験――死者の書の旅)をこそ旅することだ。(魂の旅であるバルド体験を通して、色即是空、空即是色を体現して新生する)菩薩(円融する生――衆生済度に生きる人)の誕生をこそ。(『バウの道中記』300円の申し込みは:otoiawase@openjapan.net)
2月26日 小雨のつづく一日。この間の陽気で、やっとやっと梅がほころびはじめ、白い顔を出してくる。わかこ、大豆がたくさんあるから、豆腐を作りたいと言って、豆腐作りをはじめる。浸しておいた黒大豆に水を加えてミキサーで砕き、10分ほど焦げ付かないように混ぜながら煮る。そしてそれを袋に入れて絞って、オカラと煮汁に分けて、煮汁に苦りを入れて、凝固させ、布に包んで、水を切る。これで黒大豆豆腐の出来上がり。夕食は豆腐と豆腐を炒めたものに、オカラをたっぷり使ったひじきの炒めものとなる。
3月7日 雨水に潤って、野に緑が萌えはじめてきた。自然農の田んぼにも芹が。だが冬の前に播いた大麦の芽は見当たらず、ころころとした鹿の糞があちこちに。夜な夜な鹿に食べられてしまったよう。土手に回ると、蕗の薹がにょっきりと。清清しい春の香だ。
瞑目して、内なる宇宙を眺める。
われらは宇宙的存在である。
宇宙的存在者として〈ここ〉にいる。
〈わたし〉の内に、広大な宇宙がある。
広大な宇宙のそれと等しい広大な宇宙が。
それは、そのまま、内が外にひっくり返って、宇宙そのものとして〈ここ〉にある。
内宇宙はひっくり返って、そのまま外宇宙である。
まさにこの外宇宙は〈わたし〉である。
〈わたし〉を生きている。
宇宙を吹き抜ける風、星間をゆく〈わたし〉の想い。
アンドロメダに散る桜吹雪。
内が外へとひっくり返ってゆく――
〈在る〉ということの原点がそこにある。
宇宙が〈わたし〉なのだ。
かつてルーブル美術館の地下室で、エジプトのピラミッドで眠っていた、
ミイラを容れた舟形の柩の、星々に覆われたそれを見たとき、
星間空間を飛んでゆく魂を見た。
魂の、〈わたし〉の宇宙空間がそこに広大に広がってあった。
大和の石室の星辰もまたそれであろう。
宇宙である〈わたし〉がそこにある。
とんでもない時間と空間がそこには流れている。
永遠という非時間、無限という縁のない空間。
宇宙を抱えもった一人ひとりの〈わたし〉、一つひとつの〈わたし〉。
朝露の一滴に宿る宇宙。
互いに他を映し合う宇宙(滴、〈わたし〉)。
そんな〈わたし〉がここに〈ある〉。
3月10日 雪が舞い、陽が射し、また雪が吹雪いて、大気が荒れている。風がヒューッと叫びを上げながら吹き抜けてゆく。その後は、キラキラと星がまたたきはじめ、やがて赤い月が上がってきた。人は〈永遠なるもの〉と結ばれていなければならない。〈永遠なるもの〉とは、非時間の、辺縁のない空間の、(神や仏を包み超えた)〈自覚〉であり、かつ多(現象)は多のままで、〈一(永遠)〉であるところに世界はある(との視点が掴み取られてこなければならない)。地方からも今、声を上げてゆかなくては大変なことになると、今度の統一地方選挙の県会議員選挙に出ることにしたSさんが訪ねてくる。合併前には村長として、そして市議として明野処分場問題に真摯に取り組んできたその姿勢には信頼できるものがある。
3月11日 再び−5℃の朝となり、ふゆみず田んぼに氷が張っている。3・11から4年。水俣の問題が単に産業廃棄物をどう処理するかということではなく、魂の尊厳を取り戻すことにあったように、福島の原発のそれは汚染水の処理や廃炉、あるいは除染の問題に終わるものではなく、人間の存在の在り様が根源から問われてくるものとなるはず。出かけられなかったが、午後には市内で脱原発へ向けての「はじめのいっぽパレード」があり、『日本と原発』(河合弘文監督作品)の上映会があった。はらはらと雪が往く。
3月12日 やっと強風が収まり、少し穏やかになってくる。裏の山際に出ると、檀香梅が黄色い蕾を開きはじめていた。春の香が聞かれてくる。
3月18日 この春の陽気に、田んぼの土手に出ると、枯草の間から、緑のヨモギが萌えはじめている。その柔らかい新芽を摘み、ヨモギ餅にしようと。ヨモギを茹でて、水に浸けてから、包丁でトントントントンと細かく切り刻む。そして昨日から水に浸けておいた糯米を蒸かして、小さな餅つき機でカタカタカタカタと搗きあげる。春のヨモギの香がある。そしてこのところ三日に一度の日課になっている豆腐づくりも。タイからトットが帰って来て、立ち寄ってゆく。一ヶ月ばかりの滞在だったけれど、外から日本を見ることができて良かったと。夕方、キノちゃんが新しく越してきて、農業をはじめようという若者を連れてくる。種籾用の糯米が欲しいと。今やこの北杜市は移り住みたい田舎1の土地だとか。
3月19日 春の雨の中で、渓谷沿いの木々が薄いピンクの萌木色に彩られはじめてきた。畑地には大麦がすっくと身を立ち上げ、萌え出づる野がある。冬の枯れ野に馴染んできた目には何とも鮮やか。昨日は彼岸の入りとか。彼岸に思いを馳せながら、死者たちのスピリッツに包まれてあることを想う。荒れる世界に対して、敵は自分の心の中にあることを、一人ひとりが存在のダルマ(法)に目覚めることを問いつづけたのはガンディーだった。死者たちの言葉は限りなく遠ざかりつつあるが、それらの言葉が再びわたしたちの心に激しく魂を揺さぶりながら届いてくる〈時〉がある。かつて訪れたインドのそこには〈世界〉と出会う〈時〉があった。いのちの躍動、知のときめき。わたしの〈時〉、世界の〈時〉。共時な、世界が開く〈時〉がある。その〈時〉をこそ。一時止んでいた雨がまた降りはじめた。
3月22日 いよいよ今年の米作りのはじまり。わくわく田んぼのメンバーが集まって、昨年別に採り入れて干しておいた稲束の穂を、手で一穂づつしごいて、種籾の準備。今年は昔々使われていた、幾つもの刃が突き出た「千刃扱き」が持ち込まれて、少しスピードアップ。それらを水選別して、軽い籾を除いて、それぞれの品種ごとに袋に入れて、水温5℃の水路に浸ける。こうして20日間ほど浸けておく。するとゆっくりと籾が目覚めてくる。そして同時に、燻炭作り。種籾取り作業が終わったところで、それぞれが持ち寄ったおはぎや芋料理やお菓子を頂いて、散会。いよいよである。
22 ほとけのざ 2015-1-22
11月21日 ネットで買った「貝殻焼成カルシューム」で、こんにゃく作りに初挑戦。畑で4年越しに育ててきたこんにゃく玉をミキサーですりつぶし、貝殻焼成カルシュームを加えて、ぐしゃぐしゃかき混ぜて容器に入れてゆく。固まったら水の中に半日ほど放置。そしてこんにゃくを刺身こんにゃくで頂く。とろりとした固まり具合で、今まで食べたこんにゃくの中で一番美味しく、味わい深かった。わくわく村収穫祭に向けて、収穫したお米を計量してドラム缶にしまい込む。ふゆみず田んぼのお米は一反、籾で総量約300s。自然農田の赤米は半畝で籾で18s、昨年石白は半畝で20sであった。自然農でもこれくらい採れてくれればいいのでは。
11月23日 暖かな青空が駆け抜けてゆくわくわく村収穫祭の一日。色とりどりのバナーが林をよぎって掛けられ、その間にオーガニックのカフェレストランのお店がオープンしてゆく。籾殻を燃料とするヌカクドのお釜でご飯が炊かれ、赤米を混ぜ込んだパンが焼かれ、おでん屋さん、カレー屋さん、蒸しおこわ屋さんなどが加わってくる。糯米が蒸し上がったところで、餅つきがはじまり、4臼の餅が搗き上がっていった。林のステージでは農園バンド「種まきーず」が踊りのリズムを奏でていてくれる。受付では久々に地域通貨の交換手帳「湧湧」が参加者全員に配布され、搗いたお餅は一個〈50わくわく〉でゲットでき、お店では代金の一部を「湧湧」で支払うことができる。薪運びで〈100わくわく〉ゲットも。用意した50枚の手帳は全部無くなってしまった。陽が沈み、あっという間に寒さが襲ってくる。火を囲みながら、話しに花が咲いてゆく。そしてイサムの三回忌のこの日に思う。人類として、世界として、宇宙としてめざめるということはどのようにしてありうるのだろうか。草木虫魚たちはつねにすでにめざめてあるというのに。 (自然と人、人と人との)共創の夢はあるはずだ。
ささやかながらも、わくわく村の収穫祭に集まった〈ものたち〉――共創する大いなるいのちを生きようとしている〈ものたち〉。その〈ものたち〉が生きることにおいて、共創の世界はその波動を世界へと広げつつあるのを見ることができる。ここに集った〈ものたち〉だけでも、自然農をする若者たち、オーガニックカフェを営むものたち、茅葺職人するものたち、大工するものたち、木工するものたち、音楽するものたち、ホスピス医療に従事するものたち、心や体のヒーリングに関わるものたち、社会運動に関わるものたち……などなどがいる。共創する大いなるいのちを生きようとする夢は、今ここにあり、まだまだ小さな勢力ながら、広がりつづけている。絶望から希望への可能性。それを生きてゆくことによって現前してゆく世界がある。燦々と輝く紅葉がある。
11月26日 雨の中でもみじ葉が――。ことばがない。星々を仰ぎみる。宇宙に浮かぶ〈わたし〉――。
11月27日 朝日に照らされて、甲斐駒、鳳凰三山、富士、金峰、そして八ケ岳と雪をまとってある。わかこが友人に設定してもらって〈フェイスブック〉をはじめた。すぐ隣に友だちがいるように会話(交流)できてしまう。友だちの友だちは友だちなのだと広がってゆく。これでリアリティ感はどう変わってゆくのだろうか。世界はひとつのつながりの中にあるというリアリティが生まれてくるのだろうか。ヴァーチャルなネットのつながりの中で、新たな意識が生まれてくるのだろうか。ネットで喚起されたデモもあったけれども。いよいよリアリティはネットの中に閉じ込められてしまうのだろうか。これで友だちに会わなくても会っているわけだし。光速で、時間空間はあっという間に超えられる。どこでもドアだ。
11月29日 雨の中に、渋染めの森、渋染めの野。昼過ぎには晴れ上がり、3時、山の端に日が落ちてゆく。5時にはもう、黄昏時。そして中天に半月が輝きはじめる。やがて月が西に行き、オリオンが上がってくる。
11月30日 眩しさはさらに眩しく。明日は雨との予報なので、やっと乾いてきた白大豆の脱穀を終えてしまう。トーサン、カーサンと足踏み脱穀機を踏みつづける。
12月1日 庭のもみじが最後の紅葉を奏でている。〈危険ドラッグ〉の警鐘番組がつづいている。それは、魂を解き開く精神文化を抑圧してきたところに現れ出てきた鬼子。
12月2日 本格的な冬型となり、木枯らしが吹き、凍る日差しに雪片が舞っている。
衆院解散、総選挙という。――カメルーンの笛吹。アベノミクス、これこそ危険ドラッグ。破滅に向けて果敢に踊り往く。
12月4日 朝、野にうっすらと雪。隣町のマキさんがお菓子を持って遊びにやってきた。貸している二階の若い夫婦の小学生の子が最近不登校になり、その子のおばさん替わりをしているそう。自然農をめざしているシンプルライフの若夫婦のところにはテレビや漫画やゲームなんか無いものだから、クラスでみんなが何を話しているのか全く分からないんだと。自動販売機でものを買ったこともなく、一度飲み物を買ってみたいというので、密かに自動販売機初体験をさせたり、コンビニ初体験をさせたりして悪いおばさんをしているという。
12月5日 雪雲が流れ込み、はらはらはらはらと雪が吹き流れながら舞っている。柚子を求めてきて、わかこが黙々と、いいあんばいになってきた干し柿を開いて、種を取り、そこに柚子をカットしたものを入れて、干し柿を三個分一緒にして、巻きずしのように巻き込み、それをラップで包んでいる。これを冷凍庫に入れて数か月おくと、白い粉が吹いてくる。そしてこれをスライスすると、きれいな牡丹のような花が現れ出てくる。我が家の名物お茶菓子。
12月7日 寒風が吹き続けている。種はその種の滅びに向かって歩み行く他ないのだろうか。いや生命は、〈わたし〉の死を賭して、己をよりダイナミックなものへと、変容させてきた。〈わたし〉の死を賭して、心が空っぽになれば、そこに世界が流れ込んでくる。
12月8日 真珠湾攻撃から73年。で、ぼくもまもなく73才になる。寒波が緩み、暖かくなってきたので、からからに乾いた白大豆の殻を踏みつけて割り、唐箕にかけて選別する。そして霜に耐えている野菜に覆いをしてやる。これで今年の農作業は終わりだ。
12月11日 しとしとと雨の一日。わかこ、採り入れた大豆を、ころころと小さな箱の蓋の上で転がしながら、ていねいに選別している。わかこは大豆とお話ししながらのそうした時を持つことが好きなのだ。魅入られるのだ。
12月14日 午後、衆議院選挙の投票へ。いやもう人民主権ではなく、風土主権をこそ問うてゆかなくては。
12月22日 今年は新月の、朔旦冬至。わかこ、朔旦冬至のせいか、体が新しくなったように感じると。
12月25日 瀬戸内寂聴さんの新著『死に支度』に目を通す。92歳になった寂聴さんが死に支度を意識する中、逝ってしまった親しい人々の回想が現れては消えてゆく寂庵騒動記だ。そしてついに「死に支度」なんて、小説の中でも、実生活の中でもやめようと決めました、という。寂聴さんとは同郷で、帰郷の折にはしばしば父の仕事場を訪れ、父のことも本に書いている。仕事場には寂聴さんが粘土で作った小さなほっこりした面影の、素焼きの仏さんが今も置かれてある。寂庵ができて間もない頃、招かれておじゃましたことがあり、本の跋文をお願いしたこともある。96歳となる母共々、その活力には驚かされる。
12月28日 原発事故の後、福島から移住してきた小堀くん家族が、自分で家を建てることになったので家の見学をしたいとやってきた。彼女のお父さんが手打ちしたというお蕎麦を頂く。夕方またヒロが来てくれて、三井さんのところでみんなで餅つきがあったとのことで、豆入りの餅に、黒米、赤米の餅を頂く。
12月31日 少しばかりのお正月の準備にと、雄松、雌松を山に求めて、門松を建てる。この一年の巡りがあっという間に過ぎ、再びの一年がはじまろうとしている。一日一日の新たな日である。
1月1日 20数年ぶりに迎えた八ケ岳での元旦。夜のうちに雪が降り積もっているも、晴れ上がって、初日の出に、お正月さんを迎えて、お雑煮を頂き、新春を寿ぐ。再び雪が舞いはじめ、はらはらとはらはらと。自然農や快医学や湧湧などを通して親しい友人であるヒロの家が今日の午前2時ころ出火し、全焼したとの連絡。家族は全員無事だと。家の離れになっているトイレの棟から出火し、幸い停電となったら警報が鳴る装置を付けてあったため、警報が鳴り、出てみるともう手がつけられなかったという。夕方、身を寄せた友人宅で毛布が足りないと、ヒロがやってきた。車を動かそうとして火傷した指先が痛々しい。すべてを灰塵に帰した心地とはどのようなものだろうか。まさにリセットの年。
1月3日 地域通貨「湧湧」のメーリングリストで被災したヒロたちへの支援を呼びかける。早々と支援の輪が広がっていった。
1月6日 小寒。雪まじりの雨。阪神大震災で「神戸元気村」を作って被災者の支援を支え、以後各地の災害支援に取り組んだ山田和尚ことバウさんが5日に亡くなったと。我が家で飼っている犬のサンちゃんは、彼の娘さんが引っ越しの関係で飼えなくなった犬を抱えて戦争中毒国家アメリカを告発した本(『戦争中毒』)のキャンペーンをしていたものの、これでは犬も可哀想だし、自分もキャンペーンの仕事ができないので、しばらく預かって欲しいと頼まれて、我が家にやって来たのだった。もう10数年前のことになる。彼との最初の出会いは、2000年に、ヒロシマ原爆の残り火を灯しつづけてきた星野村の「平和の灯」を持って平和行脚の途中、我が家に立ち寄っていった時だった。以後様々なイベントや支援活動の中で出会ってきたものだ。著書に『いのちの力をつかまえろ』(サンマーク出版)があるが、まさにいのちの力をつかまえろという人だった。また一つ、星が流れ去っていった。
1月7日 7時を過ぎてしばらくしてからやっと朝日が昇ってくる。−3℃。野にばりばりに凍りついたホトケノザが、葉っぱのうてなの上で濃いピンクの花を咲かせている。ホトケノザ、ハコベ、スズナなどを野に摘んで、豆腐と和えて七草の和え物をつくって、お供えしてから頂く。そして七草の和え物のことを、わかこがフェイスブックに載せたところ、七草のホトケノザとはコオニタビラコのことで、猛毒ではないが、食べない方がいいですとの指摘あり。いや、まったく知らなかった。
1月8日 冬晴れ。お月さんが立ち寄っていく。あるとき友人が、肺癌で余命後三か月と言われたので、肺癌の映ったレントゲンフィルムを持っていてもしようがないからお前にやるといって送ってきたの。そして妹さんが、じゃあお兄ちゃん300万あげるから好きに遣いなといってくれたので、好きにじゃんじゃかタバコを吸って、パチンコに興じたの。でも三か月たっても死しないものだから、医者へ行って調べてもらったら癌が消えてるって言われたの。でもお金全部使い果たしてしまったし、どうしよう。生きるって大変だねって。その彼、若い時には自殺しようとして健康ぶら下がり機にセーターで首をつって飛び降りたんだけど、セーターだったもので緩んで、気が付いたら網(保護病棟)の中だったていうことがあったの。こういうのって、生かされているってゆうんでしょうね、と。
1月9日 晴れ晴れ。先日亡くなったバウさんが務めていた「オープン・ジャパン」を引き継いでいる吉澤武彦さんから電話。バウさんが『チベットの死者の書』で送って欲しいと遺言とのこと。それは壮大な物語であり、魂の救済の物語である。それを通して人は救われる。それを選び取っていてくれた人がいる。
1月11日 鏡開き。お鏡を割り、餅粥にして福を頂く。陽だまりの暖かな休日。
1月13日 『現代の超克』を読む。やっと霊性という観点から政治や社会や哲学を問う世代が出てきた。
1月14日 「湧湧」などで呼びかけてこの一週間、焼失したヒロの家の後片づけをやってきたが、快医学の小さな治療室を残して、すべて片付き、更地となる。新しい出発がある。
1月15日 小正月。朝茅を刈りとって、40pばかりに切り、長い箸を作る。粥を炊いて、正月さんに茅で作った、目突き茅とよばれる長い箸を添えて、お祀りしてから、お正月さんを扇子にお乗せして、お帰り頂く。そして二人して目突き茅の箸でお粥を頂く。お昼前には雪が降りはじめ、角松やしめ縄をお下げして、どんど焼きする。
1月16日 『なまえのない新聞』新年号が届く。「とらわれなくつながりあう」として、今の若者たちの内に、共同体への熱い思いを追った70年代の若者たちのスピリットが息づいているのを見出して、共同体創出への夢を語りつづける田恩伊さんの記事があった。
1月17日 寒風が吹きすさんでいる。リニアモーターカーが南アルプスを貫通して抜け出る長野県大鹿村の釜沢に住む友人内田ボブの、阪神淡路大震災20年の追悼の辞に、「今日も元気にモクモクと、ルンペンストーブの火を燃やす」とある。ルンペンストーブの火の燃えるまさにそこにリニア新幹線のトンネルが掘られようとしている。
1月19日 オープン・ジャパンの吉澤さんから、『チベット死者の書』に基づくバウさんの「バルド道中記」が送られてきた。これまで『チベット死者の書』では輪廻することなく解脱する事が目指されてきたけれども、そこには49日のバルドを経て、敢えて衆生済度のために再びこの世界に生まれくる菩薩・バウさんの姿が語られていて、新鮮な感動があった。死者の書の新たな読みがある。
1月20日 大寒ながら暖かな日差しに、庭先を覗いてみると、福寿草が青い芽をぷっくりと出してきている。いよいよ春の便りである。
21 自然的思考への道 2014-11-20
9月24日 台風16号に影響されてか、曇りからパラパラと雨へ。冬に備えて、ペチカの煙道の大掃除。二階の屋根に登ってまず直登する煙突を掃除し、次はペチカ本体の5つの煙道をそれぞれに掃除してから、煤を掻き出す。最後に焚口の灰を掻き出してやっと終わる。内山節が『主権はどこにあるか―変革の時代と「我らが世界」の共創』の中で、風土主権という考え方を提示していた。わたしたちは自然と自然、自然と人、そして人と人といった関係の結び合いの総体の中で生きているからには、関係の結び合いの総体(それを「風土」と呼ぶ)にこそ主権があるはずだと。もはや民主主義でもない。風土主権が成立するところとはどういうところであろうか。風土主権の結び合う関係の世界のそこには、互いの間のリスペクト、祈りといったものが働いている。自然のそこに神秘を見、そこから生まれ来たものとしての母なるマトリックスへの畏敬の念、それらを聖なるものとして感受してゆく感性。そしてそのことによって人もまた神秘と、畏敬のものと、聖なるものとして立ち上がってくる。そこはわたしたち人類が夢を描ける最後の場所かもしれない。
9月28日 天にも抜けるような秋空に西日を浴びながら赤とんぼが群れ飛び、舞っている。数百匹はいるだろうか。薪割りが一段落したので、久々に山に入り、一株40pもある大きな、人形の振袖をひらひらと広げたような、人形茸を見つける。後はジゴボウが少し。そして帰り道、道路保全のために伐採された木を、来年の薪用にと、頂いて帰る。夕方、やっと実ってきた黒大豆を枝豆用に採り、早速に塩茹でする。採れたての黒大豆の枝豆は何とも美味しい。人形茸は茹でてアクを抜き、玉ねぎと共に炒めて頂く。肉厚でこりこりと美味。そして夜には満天の星の贈り物。
9月30日 友人たちが企画したタイの「カラワン」のコンサートに、山で狩った大きな藤蔓を舞台飾り用にと持って出かける。雑木林の森の中にあるカフェ・レストランのドームハウス。「カラワン」のスラチャイはいう。「わたしたちカラワンの歌は生きるための歌」だと。タイの民主化運動を共に生き、タイの大地に生きる人々と共に「音楽の中を泳ぐ」。「たとえ雨が燃え、火は消えても、牛車の歌は敗北をうたわない」と、心に火を灯しながら、歌が歌われていった。歌の力をもらった夜だった。元「発見の会」の瓜生良介さんの始めた快医学に取り組んでいた大月さんが、長野から病をおしてやって来て、満たされて帰って行った。また会場で三井さんから、徳島は上勝町の愚風さんが亡くなったと。癌と付き合いながらインド料理の心に思いを傾けて暮らしていた日々だったけれども。そのインド料理に向けた細やかな心遣いのそこには、時間を超えて語りかけてくれる物語があった。最初の出会いは茄子カリー。そして出会う度にインドの奥深さを、料理を通して味あわせてくれたものだ。彼のそのきめ細やかに綴られた「インド料理旅の絵日記」には見るものを心躍らせるものがある。今も心に躍っているものがある。
10月5日 台風18号の影響を受け、雨が降りつづける。友人の菊ちゃんが北野天神の神楽舞で笛と踊りをやるというので雨の中を出かける。朝の9時から夕方の4時まで、延々とつづき、天岩戸の岩戸開きで終わり、その後に祝詞の舞いがつづいて、破魔矢が射られ、餅が投げられ、子どもたちが競って取り合ってお開き。雨ながら一時の、風土のかもす快い異空間があった。我が家の栃の木は、この天神さんの神木である栃の木の実生の子。改めて仰ぎ見ると何ともそれは巨樹である。26年ほど前、はじめてここに出かけてきた時、境内は栃の白い花に敷き詰められてあった。その感動と共に我が家の栃の木はある。
夜、雨の中を、隣の富士見町に貸本屋と若者たちの集いの場としてオープンした「さんろく」で、生と死をめぐる話の会が開かれ、出かける。初回の今日は、6人の子どもを出産し、その度に自己を解き放っていった女性のドラマに満ちたお話。最初の二人は病院での出産だったが、次の時は自然分娩がしたいと岡崎市の吉村医院へ。吉村正さんは「自然にすべてをゆだねる生き方」を提唱している。そこであまりにも自然な、お医者さんである吉村さんもいらないよという女の助産師さんだけに囲まれた出産の中での、否定的な生から生の全肯定へと自己が解き開かれていった至福体験。そして次の時は自宅出産をしたいと準備をしていたら、赤ちゃんの心臓が止まりそうだと助産師さんに病院に緊急搬送され、帝王切開……。その度に自己が解き開かれてゆく。そして最後に「この話を自宅でシェアした後に子どもにおっぱいを上げていたら、みんながぐっとおっぱいを見つめるのね。で、おっぱい吸ってみるて言ったら、吸いたいって言うので、抱きかかえて吸わせてあげたら、みんながかつて葛藤のあったお母さんを許せるようになったと言うの。今はもうおっぱい出ないんだけど、ご飯を作るのって、おっぱいをあげるのと同じ。おっぱいをあげる気持ちでご飯をみんなに出してるの」と。
10月11日 今年の4月に田んぼに植えた真菰の株の下方が膨らんで、マコモ茸がにょきにょきと現れ出てきた。まことタツノオトシゴのよう。これを刈り取って採り入れる。その白い部分を食用にする。はじめてのマコモ茸料理に挑戦。スライスしてサラダに。シンプルに油炒め。また茄子と合えて炒めてみる。くせがなく、何とでも使えそう。葉っぱの方はお茶にと軒に干す。
木田元は『反哲学入門』において「プラトン以来西洋という文化圏では、超自然的な原理を参照して自然を見るという特異な思考形式が伝統になりました。……哲学を『超自然的思考』と呼ぶとすれば、『自然』に包まれて生き、そのなかで考える思考を『自然的思考』と呼んでもよさそうです。わたしが『反哲学』と呼んでいるのはそうした『自然的思考』のことなんです」と。
自然的思考に思いを馳せてみる。 〈ある〉ということのふしぎに向かい合う。 それは〈成りいでてある、自ずから然りとある〉。 そのものが、そのものであり、そのすべてが〈ある〉。 (その〈ある〉ことの背後にある超自然的原理を問いつづけてきた人類の歴史――プラトンから現代へ――を通観する。) (その営為の結果、自然は超自然的原理によってつくられたものとなり、単なる〈質料〉と化してしまった。) (そして超自然的原理の探究の果てにいたる、超自然的原理の)全否定(人のつくりごとの夢――大きな物語の崩壊と崩れゆく主体――のあと)は、全存在の全肯定(空即是色たる色)へと現れ出てくる他はない。全肯定たる他はない。 そこには、空(主体の無)が覚知する、自然(じねん)なる構造・秩序・法――関連生起(空)する全存在から輝きあふれ出てくる、〈あるがまま――真如〉の、統合的な世界が輝いてある。 世界はあふれ出て〈ある〉。 感応する魂、スピリット、精神が〈ある〉。 その不可思議を、不可思議と共に生きる。――吾亦紅の紅きこと。
10月19日 近くの森で「森カフェ」があり、出かける。林の中の道に沿ってお店が並び、奥の広場では音楽やヨガやトークなどが企画されていた。友人たちに出会い、「ぼんてんや」さんのヒマラヤン・カリーを頂いて帰って来てから、この上ない稲刈り日和の、黄金色の波の中で、ザクザクと稲刈り。寒さの夏が心配されたものの、分けつも良くて、ずしりと重く、手ごたえがある。実りに満たされてゆく豊かな時がある。『街から』132号が送られてくる。
10月20日 渡辺さんがバインダーという、小さな稲刈り機を持って来てくれて、曇り空の中、ふゆみず田んぼの、手刈りで残ったところの稲刈り。バインダーという名のごとく、刈り取るだけでなく、見事に縛ってくれる。見る見るうちに一反の田んぼの稲刈りが終わり、ウマという支柱に刈り取った稲を上下二段に干してゆく。途中パラパラと雨模様となるも、夕刻前には無事終えることができた。赤飯を炊いてお祝いし、一年の田の営みに感謝する。
10月24日 朝日に照らされて蒸気が立ち上がり、川沿いに霧が立ち込めていたが、次第に山の上へと上がってゆき、晴れ晴れと晴れ上がってきた。「霜降」となり、紅葉する木々の葉が落ち始めた山路を登って、茸を狩る。落ち葉に敷き詰められた地を占めるように広がって紫色に映えるムラサキシメジ。朽ちた栗の木から黄色く頭をもたげたクリタケ。他のキノコたちはすっかり姿を消してしまっていた。お澄ましと炒め物にして頂く。ムラサキシメジは肉厚でなかなかに美味しい。
10月25日 秋空の下、わくわく田んぼの人たちと共に、福島支援田の稲刈り。田植えが遅かったものの、実はしっかりと入っている。
10月27日 自然農田の赤米、黒米の稲刈り。赤米は順調に育ってくれたが、なぜかジャホニカ種の黒米は力が見られない。黒米を育てて10年余りになるが、はじめてのことだ。昨年は黒米の発芽率がものすごく悪かったけれども。本来は原種に近く、野性的なのだけれども、今年の天の気の巡りが合わなかったのかもしれない。夜に入って風が吹き、煌々と星空が輝いてきた。冬の足音だ。
10月29日 朝日を浴びた野の草たちの上に霜が降りて凍りついている。ついに初霜。冬構えをしなければ。それにしても草木たちはふしぎだ。光と二酸化炭素と大地から光合成していのちを、いのちの糧を作り上げている。それらなくしてわたしたちはない。
若者たちが作ったスペース「さんろく」で二回目の勉強会があり出かける。今回は甲府で在宅ホスピスを手がける内藤いづみさんのところで看護師をしているOさんが、母の看取りを契機に内藤さんのところで働くようになった彼女の心の動きが語られ、その後現代人が旅立ってゆくことの困難さが医療の現場から語られた。彼女は「カラワン」のコンサートに来て間もなく亡くなった友人の大月さんの看取りにも、亡くなる前日に関わり、その生きざま、死にざまに感銘を受けたという。精神的にも肉体的にもあそこまで枯れ切って旅立ってゆけるとはと。今回は看護師さんたちの参加が多く、それぞれの医療の現場で直面している看取りの問題が交わされた。神話を失った現代のわたしたちにとって、死ぬのは実に難しい。
10月31日 曇り空ながら薄日の射すも、午後には雨との予報もある中、4家族が集まって空模様を気遣いながら小型脱穀機で二反歩の稲を次々と脱穀してゆく。脱穀機のスピードに振り回されながら必死で追いついてゆく。脱穀がすべて終わって、籾の袋を家の中に取り入れ、天日干しの馬などの後片づけを終えたところにシトシトと雨。ギリギリのセーフ。
11月5日 富山のあきおくんから頂いた「石白」という富山在来の品種を今年はふゆみず田んぼに植えてみたが、分けつも実りも良く、なんといっても姿が華麗で美しい。穂の色もうっすらと白く、それで石白というのかもしれない。その石白を唐箕掛けして藁屑などを吹き飛ばしてから、籾摺りをする。少しばかりを白米にして、さっそく土鍋で炊いてみる。白くつやつやと立ち上がっている。ご飯を稲魂に捧げてから、頂く。清楚な味わいだ。
11月7日 立冬なれど暖か。午後、大豆が実ってきたため、取り入れをする。夏の暑さが今一で、花を付けるのが遅く、心配していたものの、たくさん実をつけ、豊かに実っている。ニューヨーク時代の仕事のパートナーだったマーヴィンから、今絵の展覧会をやっているといって、彼の描いている絵の写真を送ってきた。モノクロームの抽象画で、彼の内面の旅がそこにある。話術に長けた彼が絵を描いているというのは驚きでもある。
11月8日 わくわく自然農田の5家族が次々と脱穀にやって来た。足踏み脱穀機2台をフル稼働して脱穀、そして唐箕をかけ、籾摺りをする。それぞれに一年の思いのこもったお米を持ち帰っていった。
11月13日霧雨の中に朝日が射し込み、紅葉の裏山に虹が掛け渡った。パジャマのまま虹を追って野に出る。
11月14日 木枯らしが吹きすさび、落ち葉が敷き詰められてゆく。春の出版記念会で司会・プロデュース・演劇をしてもらった笠松真智子さんのソロプレイ「ハーモニウム」が阿佐ヶ谷の小劇場であるというので、高速バスで東京に出かけた。が、八王子まで来たところで夕方の渋滞に巻き込まれ、開演に間に合わないというので「日野」で下車。とことこと歩いてゆく。と道路からいきなり直登するエレベーター。で上にあがると、モノレールが走り、昔住んでいたことのある立川に出る。とと、なんともシュールな世界に出てしまった。まるで宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』の中にいきなり放り込まれたよう。地の上の空中空間をぐるりと廻りこんで一周する長大な歩道橋がめぐり、そこを歩いて駅構内に入ると、なんとも過剰で、過密な世界がめくるめくめぐり、ホームに降りるやタンクローリーを連結した貨車がギクシャク連結器の叫びを上げ、天上には配管が巡り、空なんかない。そして下車した阿佐ヶ谷の商店街は昔々のなんでもありの小さなお店が連なり、小さなレンタルビデオ店の細くて暗い横道を入ったそこに、地下に降りる階段が口をあんぐり開けていた。真っ暗闇の舞台。暗闇に腕だけが踊り、世界をまさぐっている。そして物語が語り出されていった。人は歌ったり、踊ったりしないではいられない。物語を食べないではいられない。にもかかわらず物語を語り出すことの困難さに直面している現代という時代の〈わたし〉への挑戦状がそこにあった。そして「一(いつ)」なる感動に満ちてゆく時に包まれていった。一つの宇宙の物語。深夜の高速バスに揺られて、八ケ岳に足を下ろして仰ぎ見た空は満天の輝きの星。一夜の夢を見ているような物語の旅だった。
11月16日 −2℃。野の草たちが真っ白に凍てついている。琉球朝日放送が制作した『標的の村』(2013年)を見に出かける。米軍のゲリラ戦闘訓練場に囲まれて、標的の村と化してしまった沖縄・高江の人々の闘い。沖縄のテレビで発信しても本土では取り上げられない、ならばと、映画で挑戦したのだと。そしてこの日の沖縄県知事選では、普天間の辺野古移設反対を訴え、本土に蹂躙されてきた沖縄の誇りを取り戻そうと訴えた候補が当選。
夜、若者たちのフリースペース「さんろく」での連続講座の三回目。40年前に翻訳・出版した『チベットの死者の書』を巡ってだ。3才の時の、戦火の中で母から世界から引き裂かれた〈わたしなるもの〉の原体験からアメリカ時代の魂を解き開くサイケデリック体験をへて、ネパールで『チベットの死者の書』に出会うまでを話しながら、『死者の書』が現代のわたしたちに問いかけているものを見てゆき、一人ひとりが死を切り開いて、一瞬一瞬の今ここにある永遠性を掴み取り、自分の生と死の物語を語り出してゆく他ないと話していった。トークの後の、深夜まで及んだ若者たちの、しっかりと自分を見据えた問に励まされるものがあった。
11月18日 ふゆみず田んぼの藁を切り、一反の田んぼ全体にぱらぱらと播いてゆく。そして水を落としていた田んぼに水を引き入れる。これでふゆみず田んぼは水の下で冬ごもり。
11月19日 野は霜で真っ白。そして昨日水を張ったふゆみず田んぼには氷がびっしり張っている。
20 つりふねそう 132号 2014・9・22
7月26日 福島支援田の田の草取り作業をわくわく田んぼのメンバーで行う。軽く耕してあるので、昔ながらの田車をくるくる押しながら、車の羽根で小さな水草を浮き上がらせ、残った株間の水草を三日月鍬で除草してゆく。盛りの夏に煽られながらもお昼前には終える。午後にはぐんぐん熱風となり、真夏日となる。そして夕刻には、ホーホケキョと鶯の声。
7月27日 五風十雨農場で「夜まつり・火まつり・星まつり」があり、出かける。棚田にキャンドルが千灯ほど点され、闇の海原のように広がる中、ブータンのマニ車に模して造られた直径2m大の和製マニ車に納められた「ありがとう」のお札が、宇々地さんと「宙音」の波動する音のバイブに祈られながら、お焚き上げされていった。その後、「自然農と『魂のアヴァンギャルド』」を巡ってトークセッション。一人ひとりがアーティストに、創造者に、変化になることだと。この農場のメインハウスは、冬の新月に伐採することでとても良い材がとれるという新月伐採の地元の材で建てられ、外部電源はなくすべてソーラー発電で賄われ、ガスも入れずに、昔からある竈やロケットストーブ式の薪の釜、そして籾殻をガス化して燃やす「ぬかくど」といった信州地方でかつて使われてきた竈を使い、水も地下から汲み上げ、トイレの水は雨水をためて使用といった設計で、農場主の向山さんが倒れる数年前はお洒落なオーガニック・レストランもやっていた。農場のお米ももちろん有機無農薬栽培だ。何度か病に襲われてきた向山さんを気遣うと、「病に倒れて分かったことは、人は死ぬものだということ。で、病を気遣うより、自分が今やりたいことを精一杯やってゆきたいんですよ」と。「甲府でもやるじゃん」と毎週金曜日の夜には脱原発ウオークを呼びかけ、ここの農場では「ありがとう笑い共和国」を作ろうとがんばっている。お祭りの終わるころには涼風が吹きはじめ、名残りの焚火に暖をとると気持ちよく、空を仰ぐと、新月のそこに、くっきりと天の川が掛け渡っていた。
7月31日 福島第一原子力発電所の事故を巡って告訴・告発し去年9月に不起訴になった東京電力の勝俣元会長ら旧経営陣のうち3人について、検察審査会は「起訴すべきだ」と議決。告訴人の欄に名を連ねさせてもらっている。
8月2日 福島からの親子保養キャンプ「親子でわんぱくキャンプ」の交流会が五風十雨農場であり、出かける。何度か福島から通っている人たちの顔も見られる
8月5日 数年前にパレスチナ問題で連続講座をお願いしたことのある歴史学・国際関係学・イスラーム学の板垣雄三さんの、岩上安身さんによるロング・インタビューがIWJであった。尖閣・ガザ・イスラエル・マレーシア・ウクライナなどで起こっていることを、世界のすべての事象は繋がり合っているとして歴史を紐解きながらの解説。そして今や世界は欧米中心主義の断末魔にあり、世界はそこからタウヒード(一化、多即一)の世界へと開かれてこなければならないと。それは華厳思想とも共時性を持つものだ。華厳思想の社会化が問われなければならない。
8月6日 原爆投下から69年、なおもヒロシマから発しつづけていかなければならないものがある。この炎天下の日に、向日葵が群れて高々と輝きながら咲いている。そして田んぼではジャポニカ種の黒米が穂を出してきた。
8月7日 立秋。野には吾亦紅が顔を赤らめ、空にはうろこ雲。尾花も穂を出してきた。
8月11日 台風の吹き過ぎた高速道を駆って、一路鳴門に向かう。お盆の帰省の自然渋滞に加えて、車両火災事故もあって、これまで最長の10時間余りのドライブで、無事鳴門に到着。この7月に95歳になった一人暮らしの母もとても元気でいてくれて、感謝。
8月13日 夕刻、蓮の葉にきな粉の団子を包んで庭にしつらえた棚に供えて、その下で母が迎え火を焚いて、先祖の霊を迎える。
8月15日 再び戦前とならぬようにとの思いを強くする。夕刻、送り火を焚いて、先祖の霊を送る。
8月19日 情報が〈わたし〉になってゆくとき、もはや〈人〉というものリアリティーは消え去ってゆくのだろう。そんな中で人は、猟奇ではなく、ごく当たり前に、人を殺して解剖してみたいと思うようになるということだろうか。
8月23日 滋賀県高島市朽木町で開かれている「山水人」のお祭りに、鳴門から出かける。「山水人」10周年になるという。琵琶湖の西岸を北上して、途中から京都と滋賀を行ったり来たりしながら、車がやっと一台通れる川筋の道をうねうねと遡り、やっとやっと朽木の生杉に辿り着く。天然杉の生い茂る山また山の中。谷の少し開けたところに「山水人」の母屋があり、その前の広場にティーピー・テントを張ったメインステージ、それを囲むようにして、お店やスタッフのためのキッチンや薪を囲むサークルなどがある。去年はキャンプ場の上の広場にメインステージがあったが、昨年の大雨で流されてしまったために、今年はこちらに移動したという。気功家の津村喬さんとの対談が企画されていて、津村さんとは彼が八ケ岳の清里で樹林気功といって樹と一つになる気功をやっている時に出会って以来で、十数年ぶりの出会い。相変わらずの巨体。今は京都に拠点を置いて、気功の会を主宰している。今日のオルタナティブな文化の源流にある60年代に焦点を当てた、津村さんとの対談。津村さんも「1968年、革命が生んだ思想とは何か」という、これまでの評論集のまとめを出したところ。ぼくは『魂のアヴァンギャルド』を巡って話し、津村さんは高校生の頃、総評の事務局長を務めた父親に連れられて中国へでかけて、はじめて気功に出会った経緯やオルタナティブとしての気功の位置づけについて、そして1967年には文化革命の嵐に遭遇、そこには負の部分ばかりでなく、若者たちの解き開かれた心の声があったと。その声に光を当てる評論活動をこれからしてゆきたいなどと……。
8月24日 朝の時間に津村さんの気功のワークショップ。経文を繰り返し繰り返し詠唱する音楽に合わせて、ゆったりと静かな気功に体と心を解きほどいてゆく。そして亀になり、熊になり、龍になり、樹木になりしてゆく。久々に、気功の心に触れる時となった。
8月25日 宿舎となっていた小さな週一回の診療所を兼ねた公民館の管理人のおじさんとこの村の行末などについてしばし話し込む。小さな小学校があるものの、この地の子どもは誰もいなくて、みんな山村留学で来ている子どもたちだと。かつては一学年、40人はいたという。未来を託すべき子どもたちがいないのだ。そして経済。かつては生杉(おいすぎ)といわれるように、天然杉が生え、植林しながら杉を伐り出したり、炭焼きをして経済が廻っていたという。田んぼは見てのように茅の原。脇の谷と呼ばれて、家の脇には必ず谷があったけれども、その谷も手入れされなくなって水が涸れてしまっている。村を支えた伝統行事も途絶えたまま。都会から入ってきた人たちもいるけれども、仕事がないから京都などにここから通ったりしていて、新たなコミュニティができるわけでもない……と。そして冬は2mもの雪の中。
そんなこの地に足を下ろして、地のコミュニティの再生にがんばっている一人に飯高転石さんがいる。5年前の山水人でコミュニティをめぐって対談したことがある。「法(ダルマ)とは存在の事実であって、その存在の事実の、一人一人が宇宙の中心なんだということに即して人が共同性をつくる。共同性というのは人間だけを考えるんじゃなく、森の木々や野生の生き物、太陽や月、川、この土地、こうした全てのものと共に自分はいるんだと認識しながら生きていると楽しいし、豊かなんです……」と。禅の道場「朽木学道舎・寒山禅堂」を開きながら、「山帰来」という朽木のコミュニティ再生のNPO法人を作ったり、滋賀県の勧める子どもたちを湖に連れてゆく「うみの子プロジェクト」に呼応して、湖を守る山の価値に目覚めて欲しいと、県に掛け合って「やまの子プロジェクト」を立ち上げたりしている。その飯高さんを訪ねて、台形から突き出たもう一つの屋根をもつ美しい茅葺屋根の道場の入り口にある板を叩けども、声なく、『未来への舟』の本と伝言を書き置いて、車をターンさせて家の前まで引っ返してくると、何とちょうどそこに飯高さんが僕の本を持って立っている。そして飯高さん、いやー、驚きです、昨日ネットではじめてこの本のことを知って、それが……と絶句。飯高さん、ここから山を歩いて越えて福井県の小浜の禅道場(原田雪渓老師)まで通い、印可を受けた人だ。お茶を頂きながら、法の自然、存在の事実について話し込む。自然はそのままで覚っているのだと。帰りがけに家を振り返ると、たくさんの茅が束ねられて立てかけてある。これから3年がかりで茅の屋根を吹き替えようと、茅を刈っているんですよと。自力で吹き替えるという。
その後、山水人の祖牛さんらに暇乞いをして、道々で出会う人たちに呼び止められては、60年代のサイケデリック革命の蜂起について、無限の可能性を夢見た時代だったなどと話しながら、会場を後にする。無限の可能性が開くものがある。川筋の道を走り、湖北に出て、竹生島を見やりながら木ノ本に出、高速道を駆け、やっと夜の9時に帰り着く。ここ八ケ岳はもう虫の声のすだく秋の中だ。
8月28日 3・11後、新しい棲家を求めて旅をつづけているYさんが、再びやって来た。北海道では、森に牛を放牧して、牛みずからに開拓させている斎藤さんの牧場やアイヌ詞曲舞踏団「モシリ」を訪ねてきたという。彼、今破局に向かうこの世の中に、何とか大転換の希望の光を見出せないものかと、夜な夜な語りつづけた。
8月29日 渡辺眸さんの写真展「1968新宿」が新宿のニコンサロンで開かれ、オープニングパーティに出かける。林立するビル群に迷い迷いしながらやっと28階の会場に辿り着く。新宿が文化だった1968年。アヴァンギャルドが、アンダーグラウンドが、カウンターカルチャーの蜂起があった。写真集『1968新宿』も街から舎から刊行されて、時の騒乱が伝わってくる。旧友たちと久々に出会うものの、みんな様々に介護に関わっていて、大変と。泉さん「母が言うのよ、地獄の見学に行ってきたのよ、閻魔さんと結婚したいなど……」と。握手した泉さんの手は、暖かくふんわりと至福に満ちていた。その暖かな手で母を包み込んでいるのだろう。人と物の余りにも異なる波動に疲れ果て、深夜、帰宅。
9月1日 雨に閉じ込められている。山はすっぽりと霧の中である。その中で南瓜だけがぐんぐんと大きな茂りを広げている。
人類はなぜ、国家という幻想を超えて、地球という場に立てないのだろうか――。人は宇宙を夢見ることもないのだろうか――。
人よ、お前はどこへ行こうとしているのか――。そもそも、お前は誰なのか――。
誰なのでもあるまい。
ただただ つりふねそうに この地に この宇宙に魅入られたものがいる。
夢を宿した種子を植え 種子は夢を形にして芽を出し 茎をのばし 葉を広げ 花咲き 実をむすぶ。
その夢の実りを刈り いのちの夢をいただき 夢を共にする。
文明というもの 進歩というものがあるならば それらは これらの夢見の中にこそあるもの――。
境界を超えながら 夢見は広がってゆく――。夢見は境界をかるがると超え 境界をつなぎ 夢見の中に 人を 世界を 宇宙を舞わす。
境界をかるがると超える夢をもつ人(人類という種)は なぜそれを失ってしまったのだろうか――。なぜ人は夢に リアリティを見出せなくなってしまったのだろうか――。
夢こそが 宇宙を 世界を 人を立ち現わしているというのに――。
その夢の時空を 人(アボリジニ)は ドリームタイムと呼ぶ。
ドリームタイムの宿された夢(種子)を育ててこそ 世界は 人は花咲くことができる。
只今の中で 世界は息づき 夢を咲かせつづけている。
つりふねそうが 己の夢を輝かせてせいいっぱいに咲いている。
ひたすらの雨が降っている。
ふと かたわらに 「坐禅和讃」があった。
無相の相を相として 行くも帰るも余所(よそ)ならず 無念の念を念として 歌うも舞うも法(のり)の声
そこには一つのものがたりがある。
緑したたる野は すでに深い闇の中である
9月4日 何とも今にも降り出しそうな一日。下の田んぼのおばあさんが田んぼの様子を見にやってきたのに出会う。この雨模様の天気で稲の実りは大丈夫でしょうかねと尋ねると、くず米の割合が高くなるでしょうねと。そして昔の方がうんと穫れたし、うんと美味しかったと。そりゃあ、違いますよ、天日干しして、籾で蓄えて、薪の竈で焚く。そりゃあ、美味しいよ、と。我が家のお米は天日干しして、籾で蓄えている。薪の竈で焚かなくっちゃ。
9月6日 久々に晴れて、わくわく田んぼの共同作業。この夏の雨で延びた土手の草刈に汗を流す。晴れれば夏。作業の後、差し入れの、はね出しの山形特産の大豆「だだちゃ豆」を塩茹でして、みんなで頂く。夜に入り、再びの雨。
9月8日 久方に夕焼け空が広がり、日暮れとともに、すっぽりと秋。そしてかの名月は夕焼け雲の中。夜半、うっすらとした雲が半天を覆う中、それは中天にあって、緑の谷を深海としている。午前3時、それは西の端にあり、東の空にはきっぱりとオリオン。
意識(精神)→言葉(霊的力の宿る場)。原初の言語は聖なるものの息吹(深秘の意味としてのコトバ)――。呪術的思考が言語に意味を与え、言語こそが現実を変えることができる――社会の新たな可能性が生起する。世界は呪術(言葉→意識)の中にあるのだから。
9月12日 やっと秋晴れ。稲穂が少しずつ黄金色に輝いてきた。生きるということが価値に換算されなければならないというそのことが、そもそもおかしいのだ。価値に換算されないものは、生の外に切り捨てられ、あるいは遊びやボランティアとして分節されてしまった。かくして関連生起する存在の全体性は消し去られてしまう。生はもっと一つのものであったはずだ。山とも川とも労働とも。
9月14日 さわやかな秋空。小淵沢での「和と輪まつり」に出かける。オーガニック系のお店が並んで、丘の下方に音楽堂がある。友人たちのバンドの後に三宅洋平。参議院選での出来事、それは彼が若者たちの心の内にある変革への思いを喚起したということ。若者たちの内に変革への思いがあるのが見える集まりだった。秋の陽はつるべ落としに落ちて、リンリンと虫の声。
19 いのちと向かい合う 2014・7・22
5月21日 ハルジオンの咲き乱れた野がある。人は、それを荒地に咲くゆえにビンボウグサと呼ぶけれども、己を咲きながら大地の豊穣性を支えている。雨上がりの畑に三井さんから頂いたトマトの苗を植えるも、畑にはもうカラスノエンドウやハコベやオドリコソウなどの草が生い茂っていて、それらの間に植えてゆく。
5月22日 晴れ上がった野に蝶がひらひらひらひらと舞い飛んでいる。すべては人間のものであり、国家のものであると人々は競い合っている。国家こそが法であると。だが蝶にも法があり、宇宙にも法がある。いのちの法を蹴散らかす原発の再稼働。そんな中、福井地裁は大飯原発の再稼働を認めぬ判決を出す。生存の権利と電気代は同列にできずと。
5月24日 わくわく田んぼの共同作業日。田植えに備えて、ぐんぐん伸びてきた土手の草刈。その後は、苗代の雑草取り。早苗はもう10pくらいに伸びてきている。夕刻、五風十雨農場でのキャンドル・イベントに。田植えの終わった棚田の畔道に沿って、キャンドルが置かれ、田を彩っている。マニ車が水路の水を浴びながら、キャンドルの光の中でくるくるくるくる回っている。そしてタブラ(太鼓)に合わせてファイヤー・ダンスが舞われる。キャンドルの光に包まれた輪の中で夢見が育まれ、夢見る人が生まれてゆく。わたしたちにはそうした魔法が必要なのだ。この宇宙そのものが魔法なのだけれども。
5月25日 午後、黒岩さんの自然農の田んぼにマコモを分けて頂きに。富士見町の井戸尻縄文遺跡のすぐ下にある南アルプスを望む美しい谷津田にある。田んぼいっぱいに根を広げたそれをスコップで切り取って掘り出す。秋には真菰茸が採れ、食用となる。マコモは水を浄化してくれたり、茎をお茶にすると体を浄化してくれたりするという。
5月26日 白い卯の花が咲き乱れてきた。まもなく梅雨入りだろうか。夜には雨となり、蛙が嬉しそうに鳴いている。明野処分場で抗議集会。産業廃棄物の最終処分場として建設され、濾水問題などを起こして閉鎖に追い込まれたものの、アスベストなどの危険物をそのままにして埋め立てて、何もなかったことにしようという。原発も処分場も蓋をすれば終わり。見えなければ何も問題はない。
6月4日 諏訪瀬島のナーガから彼自らが漁をしてさばいて冷凍した飛魚が今年も届いた。早速に焼いて頂く。一年に一度お目にかかる飛魚。身がしまり旨みがいっぱいに詰まっている。
6月7日 梅雨の中、つがいの鴨がふゆみず田んぼに水紋を描きながら餌を啄んでいる。雨のため脱原発の「はじめのいっぽパレード」は中止に。『インテグラル・スピリチュアリティ』においてケン・ウィルバーは、世界は個の内面(意識)と外面(物質)、集団(社会)の内面(文化)と外面(社会システム)の4象限を持ち、これら4つの象限が互いに関係し合って共に創造する進化の過程の中にあるものであり、今日の世界の諸問題を立ち現わしている、世界の人々の70%以上を占める自民族・集団中心的な世界観(個的、合理的世界観ないし多元主義的世界観)を超え出ることができるものは統合的なスピリチュアリティをおいて他にないという。
6月10日 苗代の土を起こして早苗の苗取りをして、ふゆみず田んぼの田植えをはじめる。近年ほとんどの稲の苗は、田植え機用に作られた箱苗で、雑草の種などのない苗床用の土などを入れた深さ2p程の箱で密生して育てられる。雑草もなく、手植えで植えるにしても、苗取りをしなくてもよく、いとも便利である。雑草と一緒に大地の上で育てられる苗は、雑草取りや苗取りの手間が大変だけれども、しっかりと丈夫な苗だ。そしてしっかりと自然の近くにいることができる。冷夏冷夏と騒がれているけれども、早苗が無事成長して豊かな実りをつけてくれますよう。
6月12日 葉に玉露をきらきらさせて紫露草が咲き出してきた。甲府で在宅ホスピスを担っている内藤いづみさんのところで学んでいる看護師さんたちが田植えの手伝いに。ふゆみず田んぼは「生まれもってきた生命のリズムを思い出させてくれるように感じました」と。夜半、晴れ渡った空に満月がまぶしい。
6月13日 全国一斉の河川の水質調査に加わって、近くに住む友人たちで、富士川に流れ込む河川の水質調査をする。梅雨のためかいつもよりCOD(生物酸素要求度)が高めに出る。お昼ごろから雨が吹き付けたり、晴れ間が覗いたり。山椒が丸く膨らみ、種が固くなる前にと、山椒昆布を作るために山椒の実を採り入れる。雨の間をぬって田植え。夕方には西の空に虹がかかった。自然農実践者の全国大会が9月に富山で開かれると、富山の石黒完二さんからお知らせがあり、福岡自然農の会からも二年前に亡くなった松尾靖子さんの本『ようこそ、ほのぼの農園へ』(地湧社)が出たと案内があった。「自然農は私の人生の道しるべ」だと。
6月15日 快晴に晴れ上がる。古代米の長粒の黒米を田植え。ススキのように逞しく育ち、長い穂を出してくるとてもワイルドな稲だ。早苗の段階から苗に黒い斑点があり、茎の根本は赤みを帯びている。夜、湧湧定例会。わくわく村しんぶん108号を発行。
6月19日 最後にもち米を植えて、ふゆみず田んぼの田植えは無事終了。一反10日間の
お田植えだった。ふゆみず田んぼ用に特別に作られた田植え機を使えば、半日で終わり。ふゆみず田んぼは、冬期にも水が張られているため、佐渡などでは冬期にも朱鷺の餌場の湿原を提供してくれるということで、そうした田植え機の購入に補助金が出るという。
6月20日 梅雨空に、紫露草が咲き乱れている。自然農の田んぼには、レンゲや芹や小麦や名も知らぬ草々が茂って、とても豊かに見える。自然農田の田植えに備えて、豊かな茂りの草たちを刈り払って、田に敷き詰める。
6月21日 もう夏至だ。といってもこの梅雨空に夏は感得しようがない。野の草を刈り、自然農の田んぼに敷き入れて、穂の落ちないように改良された丸いジャポニカ種の黒米の田植えをはじめる。鋸鎌で草を切り分けて、苗の移植のようにして、早苗を植えてゆく。なかなかに腕に応える。自然農田もふゆみず田んぼも共に不耕起ながら、自然農田は畑地、ふゆみず田は沼地といった違いがある。ふゆみず田ではかろうじて手で植えられるものの、自然農田では鎌で草の根を切り分けて植えることになる。
6月22日 雨の一日で、田植えはお休み。TVで東松照明の「沖縄」を見る。敗戦時14歳だった少年にとって戦後は米軍の占領の歴史だった。「沖縄の中に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある」という沖縄で写真の原質に迫りつづける中で、占領されざる人間の原質を輝かせて生きる人々との出会いがあり、その旅は東南アジアへとも広がっていった。本土の人々の心こそ占領下にあるのではと。午後、「原発ゼロ社会への道を探せ〜市民がつくる新しい脱原発政策」を発表した原子力資料情報室の原子力市民委員会のメンバーを招いての「4・3ひろば」の特別講演会があり、出かける。廃炉作業の検証と大飯原発差し止め訴訟判決の意義についての話があった。地下水が流れ込まないように原発の敷地の周りを遮蔽して、炉は石棺にして閉じ込め、負の世界遺産とするのがいいのではないかと。夕方帰って来てみると、先日わくわく田んぼのメンバーが土手のヨモギを摘んで届けたおまんじゅう屋さんから、お礼にとヨモギの入ったまんじゅうが届けられていた。
6月23日 午前中黒米を植えるも、午後は雨となって田植えを中断。「沖縄慰霊の日」だと言って、石垣市の友人から沖縄の小学生が音読して覚えるという詩を送ってきた。「きれいな海が ふたたび死者で
うもれることのないように 人間は えらくなんかないから……人間は けっして強くなんかないから……ひとりひとりの手で 平和を えいえんに守りつづけようよ」そして追悼式では、石垣の小学生が「空はつながっているのに どうしてかな どこまでが平和で どこからがせんそうなんだろうか」という詩を読み上げたという。どこからが戦争なんだろうか。未だ紛争の、戦争の絶えない世界。かの地の戦争はわたしたちとつながっている。
6月25日 不安定な天気がつづいている。東京では、昨日、数十センチもの雹が降ったという。小出裕章『100年後の人々へ』(集英社新書)に、「誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬ」(松下竜一『暗闇の思想』)とある。
6月26日 ホタルブクロが咲きはじめた。その淡いピンクの袋に蛍を入れてみたら、どんな世界が開けるのだろうか。ここでは蛍はまだまだ先のことである。それにしても子どもの頃わんさといた蛍はどこへ行ってしまったのだろうか。イルミネーションのように群れてピカピカと煌めいていたあの蛍たち。
6月27日 やっと熟れてきた小麦の下草を刈り、そこに大豆を植えてゆく。こうしておくと、双葉が出た時、小麦の切り株が目隠しになって、鳩の目を逃れることができる。一度鳩に発見されると、芽が出たばかりの双葉をことごとく食べられてしまうことになる。午後サラちゃんが、天ぷら廃油をろ過しただけの油で走るように改造したトラクターでやって来て、苗床用に使っていた福島支援田を、明日の田植えのために耕してくれた。逞しい二十歳の力だ。この田は毎年苗床用に使っているため不耕起にはできないでいる。蔵屋のヤギさんが明日からある難病の子どもたちの保養施設「あおぞら共和国」建設のボランティアをと訪ねてきて、『自然農に生きる人たち』(新井由己 自然食通信2008年)を持ってきてくれた。この八ヶ岳を含めた全国で自然農を実践している人たちへのインタビューや紹介が載っている。そこに川口由一さんの「手作業でなければ命と向き合えない」ということばがあった。機械化すればするほど、いのちを掴み取れなくなってゆく。機械化農業への警鐘、いのちへの大きな警鐘だ。情報化時代、それ、いのちはさらに稀薄化しつづけているのだろう。機械化すればするほど、いのちは物となり、情報化すればするほど、いのちは情報の点となってゆく。いのちほど手作りのものはない。これほど手作りのものはない。手作り以前の、奇跡の恩寵。いのちを塩基などの配列に還元して、いのちを物として捉える。もはやそこにいのちの恩寵はない。そんな世界にわたしたちは生きているのだろう。だからこそ、それゆえにこそ手作業から、いのちの恩寵から出発しなければならないものがある。
6月29日 朝5時ころまで激しい雨が降っていたが、6時ころには一気に晴れ上がってきた。田植えがはじめてという人たちも加わって、総勢18名、4年目になる福島支援田の、苗取りをしつつ早苗を植えてゆく。お昼をはさんで、3時には終了となった。
6月30日 昨日新宿で、集団的自衛権行使容認への憲法解釈変更に、焼身自殺をもって抗したとある。ここ八ヶ岳の蔵屋で話を伺ったこともある沖縄在住の政治学者ダグラス・ラミスさん「兵士が戦場で人を殺しても殺人罪に問われないのが交戦権」だと。いのちと向かい合わねば。そしていのちを解き開かねば!夜の闇には蛙の、いのちの大合唱。
7月1日 集団的自衛権行使容認への解釈改憲を閣議決定。閣議決定で何でもできるというのであれば、憲法って何なの。
7月3日 苗代仕舞い。わくわく田んぼのメンバーに声をかけて、苗床の余った苗を鍬で起こして、土手に上げ、苗床のところに苗を植えてゆく。雨上がりの夕刻、ふゆみず田んぼへの土手を降りてゆこうとすると、一足踏み出すごとに、1pくらの小さな茶色の、オタマジャクシから孵ったばかりの、ヤマアカガエルの子どもたちが、ぴょこぴょこぴょこぴょこと草叢から飛び出してくる。足を踏み下ろすところがない。
7月7日 七夕なれど雨の朝、ふゆみず田んぼに出てみると、昨日まで蕾だった縄文蓮が二輪、ピンクの花を開いて、あの世がある。あの世に生かされているわたしがある。『なまえのない新聞』7月号が送られてきた。60年代末からいのちをもって、カウンターカルチャーを駆け抜けた愛すべきトリックスター故山田塊也ことポンちゃんの『アイ・アム・ヒッピー』(森と出版)復刻版出版に際しての、ヒッピーカルチャー特集。いのちの反乱。
7月12日 台風一過の快晴となり、気温はぐんぐん上がってくる。わくわく田んぼの共同作業日。雨でぐんと伸びてきた土手の草刈。中間山地にあるため、耕地面積の五分の一を急斜面の土手が占め、一反歩ほどもある。大勢の参加でお昼前には終了。クマさんが9月30日にタイの音楽バンド「カラワン」を招いて八ヶ岳でコンサートをやることになったと言って、資料にとDVDを持って来てくれた。88年のいのちの祭りにも参加してくれたバンドだ。喜納昌吉の「花」を歌って、東南アジアに「花」の旋風を巻き起こしたことで知られるが、タイのファシスト政権と闘う市民運動や憲法制定運動に関わってきた人たちでもある。DVDは、その中心人物であるスラチャイを追った沖縄での「花の源流を求めて」(1997年)と小室等さんによるインタビュー番組「アジアからの発信」(1991年)。歌を力にして民主化運動をしたたかに闘ってきたスラチャイの姿がそこにあった。
7月14日 すっぽりと朝霧の中だ。その中を鳥がチュンチュンと鳴きながら飛び交っている。畑の畔の草刈をしてから、雑草が伸びてきたふゆみず田んぼの除草。除草といっても三日月鍬でホタルイやオモダカなどの草を剥がして水面に浮かすといった作業だ。ホタルイは井草の仲間で、しっかりと根を下ろしていて、根を起こすのはなかなかに大変。午後水田の減反面積の調査があった。稲作の減反も間もなく廃止されようとしている。かつては減反を強制し、減反に抗った人たちは、犯罪者扱いとなった。今度はTPPだ。自由競争で生き残れと。農もまたいのちと向かい合っている。それはいのちをもっていのちを養ういのちであり、いのちを育むには愛情もなくてはならないし、そもそもそこにはスピリットが宿っている。稲には稲魂が宿っている。いのちと向かい合う農の姿こそ復権されなければならない。
7月19日 トントントントンという鋭いキツツキの音に目覚める。梅雨空の中、ふゆみず田んぼの除草がやっと終わる。60年代ニューヨークで、映画を共に作っていた友人マーヴィン・フィッシュマンの当時のパートナーだったローラが亡くなり、追悼の会があるとのメールがあった。76才。ニューヨークから帰ってくるとき、英語を勉強するようにと、英語の辞書を贈られたものだったが。彼らと過ごしたニューヨーク時代のことごとが思い出されてくる――ひたすら今に生きていた日々。出かけることは叶わないので、蓮のうてなに生まれることを願って、今ふゆみず田んぼに咲き誇る縄文蓮の写真を送る。彼マーヴィンは今、ヴァーモントで、絵を描いているという。
7月21日 梅雨明け間近。夜外に出てみると、やっと庭の池にホタルがピカピカと。今年も蛍が無事育ってくれて何ともうれしい。
カントリー・ダイアリー 2011--2020年 連載 NO NUKES ONE LOVE
おおえまさのり
街から舎から発行されている 街から に連載しているものの電子版です。下段から1,2,3,4・・・となっています。
街から は 2019-2-10号のカントリー・ダイアリー45号をもって終わりましたが、電子版は続行。