新刊案内 2006年6月 刊行 1900円+税
おおえまさのり著 作品社 刊
『夢見る力』
−−スピリチュアリティと平和−−
今、世界に問われているのは、夢見る力 を持つこと。
序 いのちの夢見
「想像してごらん、天国なんてないんだと……」と歌うジョン・レノンの「イマジン」、それはわたしたちの心を駆って、社会の変容を起こしてゆこうとする。国境なんてない、殺す理由なんてないと。強烈なイメージの喚起力がそこにある。
「夢見る(イマジンする)力」が世界を作り出してきた。生きとし生けるすべての生命には、想像し創発する生命の潜勢力「ドリームタイム(いのちの夢見)」が宿り、生命は「いのちの夢見」を花咲かせるべく現れ出てくる。だが、世界は、夢見る力を奪い、ドリームタイムを幻想として封じ込めてきた。そして今、わたしたちは夢見ることを自ら禁じてしまっている――。
わたしたちは今、近代的なものの極限を迎えつつあるのかもしれない。その帰結として現代があり、その現代は行き方が見えず、崩壊の兆しを見せている。9・11後のアメリカの姿にはその極点を見る思いがする。
一九六〇年代を契機に立ち上がってきた新たな意識変容の潮流が、人類の臨界点を超え出てゆく予感に彩られていた二十一世紀の夜明けは、一転して、新保守主義者たちの主導する新帝国主義の怒号にまみれた武力に呑み込まれてしまっている。
意識変容の予兆を告げた、スタンリー・キューブリック監督の映画『二〇〇一年宇宙の旅』は、リチャード・ストラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の荘厳な曲が流れる中、謎の物体「モノリス」に触れた猿人の一人が地面に落ちていた骨を拾い上げて立ち上がり、争い合っていた他の猿人を打ちのめすシーンではじまる。武器という道具を用いることで人類ははじめて、人類となったという象徴的シーンである。
そして数百万年後の、二〇〇一年、宇宙の旅がはじまる。だが、二〇〇一年、九月十一日後の展開は、わたしたちを再び、数百万年前に逆戻りさせてしまったかに見える。怒りに沸いた米国議会。一人を除く全員が狂喜して、世界に向かって対テロ戦争を宣言し、武器を持って立ち上がったのである。
境界や教条や人格神を巡って争いつづけてきた人類の、何も変わらぬ、いやもっと残酷で殲滅的な営為が、賞賛されながらそこにあった。そしてイラクへの、いかなる国際法も容認していない予防的先制攻撃と世界によるその容認……。それらの事態は、人類は終末に至るまで戦いつづける他ないものなのだろうかと思わせてしまう。
謎の物体「モノリス」の、意識変容の物語を秘めた『二〇〇一年宇宙の旅』の巻頭シーンに立ち返りながら、人類というものの意識の旅を振り返ってみたい。
人類はその(原人といわれるヒト科の)発生以来数百万年に渡って、大いなる神秘を秘めた漆黒の闇に身を震わせ、すべてのものの生まれくる原初の闇に耳をそば立て、死後のどこまでも不可知の闇に分け入り、無辺の宇宙の闇を見つめ、新月の漆黒の闇を仰ぎ、深深とした森の闇をさまよい、恐れと畏敬に満ち満ちた闇に祈り、そしてそこから湧き起こってくるいのちの夢見を喜喜として汲み出しつづけてきたものだ。
わたしたちはそこから生についての多くの秘密を学び取り、世界は溢れ出てくる霊性に満たされていた。
そこでは、わたしたち一人ひとりが霊性的世界と直接交流し合い、かつわたしたち自身もそうした霊性的存在であった。だがやがて、霊性的世界との交流が司祭や巫女といった人たちに占有され、王のみがその継承者であるとされるに及んで、わたしたち一人ひとりの内に息づいていたいのちの夢見が失われ、世界から霊性が奪われていった。
やがて、霊性を封じ込めた人格神や唯一神が現し出されるや、世界は神との契約によって、人間の支配するものとなっていった。そして霊性を奪い去られた世界、大地や森や生き物たちは、収奪してよいものとなり、破壊されていった。それは世界ばかりか、人間自身をも収奪し、破壊していった。さらに世界を精神と物質、主観と客観に引き裂く二元論的思考が追い討ちをかけ、世界は一層差異化され、境界化されていった。かくしていのちは、教条や国家、経済や体制の前に、「鴻毛(鳥の羽)より軽し」(軍人勅論)とされ、経済が停滞するとしてアメリカの温暖化防止条約批准拒否といった事態を招いている――温暖化や公害によって地球そのものが危機に瀕しているというのにである。これが人類の進化というものなのだろうか?
わたしたちは今一度、立ち止まって、わたしたち自身と世界を見渡してみるべきである。
文明の果てにわたしたちはいのちを見失い、様々な病に侵されている。その元凶には、先に見たように、世界から、いのちから霊性が奪い去られていったことがある。世界や大地、そしていのちに宿る霊性が奪い去られたために、わたしたちはそれを収奪し破壊することができたのである。
そして世界から霊性が失われていったのは、大いなる神秘の闇の場に息づくいのちの夢見をわたしたち自身が葬り去ってしまったことにある。
大地を、世界を破壊して、どうして豊かないのちが育まれることができるといえるだろうか?
オーストラリアの先住民アボリジニは、大地には種子が宿り、種子はその後に形成される植物の夢見を宿し、その夢見を形にして植物はこの世界に立ち現れて来て、己を実現するという。そのように、この宇宙には、生きとし生けるすべての生命には、想像し創発する生命の潜勢力「ドリームタイム(いのちの夢見)」が宿り、世界はいのちの夢見の形態形成場として歌い出されてくる。そして生命が現し出され、この世界は、さらなるいのちの夢見を創り出してゆく創造の場として展開する。
大地や世界の、そしてわたしたち自身の破壊を止め、いのちの息づく豊かな地球を取り戻すには、大地の、世界の、わたしたち自身の霊性を取り戻すことである。そこに霊性を見ることのない環境保護政策では、大地やいのちへの人間中心主義的な支配の壁を破ることはできようがない。そして霊性を取り戻すには、大いなる神秘の闇に息づくいのちの夢見を、その霊性的自覚を取り戻すことである。
霊性、そして霊性に秘められたいのちの夢見こそ、生命の源であり、あらゆるものが生起してくる創造の泉である。霊性(スピリチュアリティ)を失った人類は、もぬけの殻となっている。
これらの問題を考えてゆくに先立って、近代の問題として一九六〇年代に立ち上がってきた意識の変容の新潮流を振り返りながら、スピリチュアリティの在るところを明確にしておきたい。
六十年代、近代の自我の壁を打ち破るべく自己を超え出ようと、超越的なものへの衝動が吹き出てきた。やがて、それらの超越性をアイデンティファイして、自己を支えてくれる原理を求めて、父なるもの、教条やグルやカルト集団を希求していった。その極点の崩壊劇の一つとしてオウム事件はあった。
その崩壊劇の中で、人々は己の内に、自己を無条件に抱擁してくれる母なるもの、大地性の欠如(その一つに環境問題がある)を見、シャーマニズムへの傾斜を強めていった。
そして9・11にキックされるようにして、社会性がそこに巻き込まれてきて、公共的な、よりホリスティック(全体系的)なアプローチが求められてきている。
哲学においても、個人の哲学から、公共哲学といった領域の開拓が模索されはじめている。
公共性の問題として、霊性の内包する無境界性の中に、境界を巡って紛争しつづける人類史を包み超えてゆく道が見えてくる。境界とはわたしたちの意識の場の問題としてあるものだからである。
今、世界に問われているのは、夢見る力を持つことである。ドリームタイムの場には、人類の希望と未来に向けての「夢想する思想」があり、そこから、汲めども尽きない人類の、いのちの夢見を紡ぎ出すことができる。わたしたちに求められているのは、夢見と自然界が同時に存在し、それぞれがもう一方のイメージであるような世界観や生き方を立ち現すことである。
2006年春
おおえまさのり
目次
序 いのちの夢見
第T部 夢見る種子
第一章 ドリームタイム
夢見 生 進化と時間
神 社会 ソングライン 死と再生
アイデンティティ 境界化と法 再結合 夢見る力 夢見考
付記:哲学のかなたから
第二章 生命の織物
母なる大地 スウェット・ロッジ
ホピ 大地性 WPPD
間奏曲 太陽――アボリジニの神話から
第U部 ドリームタイムを生きる
第三章 ドリームタイムへの参入
儀礼 ドリームタイムの立ち現れ
仏教におけるドリームタイムの展開
死のドリームタイム ドリームタイムの再誕 ドリームタイムのヴィジョン
ドリームタイムへの祭儀としての舞 紛争の心理学 ドリームワーク
付記:ドリームタイムの構造的理解のために 付記:霊性的自覚
間奏曲 シンギング・ストーン
第V部 神話を語り直す――文明とは何なのか?
第四章 再び楽園に向けて
文明 出楽園 呪縛 付記:平和宣言 大地のドリームタイム
大地性へと
自然農 付記:エコロジカル・フットプリント
生きることとしての経済
民主主義の再考 深層民主主義
族母 平和を紡ぐ旅 軍隊をすてた国 憲法再考への道
意味を問う 小さな花 付記:「夢見る力としてのニューズリール」
境界のない神話 二十一世紀の戦争
第五章 中観
中道
間奏曲 光の夢
第W部 世界の歌を歌う
第七章 宇宙の第一日目
宇宙の第一日目を歩む
湧湧村――ひとつの試み
憲法再び
付記:無畏城の主
あとがきに代えて
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