〈わくわく田んぼ〉

 

 1988年八ケ岳の麓で開催された「いのちの祭り」で自然農の提唱者川口由一さんと出会い、2003年現在の白州に移って、地域通貨「湧湧」の農部会のメンバーと共に〈わくわく田んぼ〉をはじめました。耕さず、虫や草を敵とせず、肥料も施さない、自然の営みに寄り添った「自然農」に取り組み、冬期湛水(ふゆみず田んぼ)方式を取り入れながら、稲作を中心にした「半農半X」の自給農を行っています。春にはヤマアカガエル、夏には縄文蓮、秋にはアキアカネ、自然を楽しみながら。

 

@  いのちの営みに寄り添う――生き方としての農

           (以下、2005年山梨日日新聞掲載記事より)

 アキアカネが飛び交う青空の下、黄金色に秋の実りを波打たせていた稲穂は今、稲木に架けられて、脱穀を待っている。この後、我が家の田んぼは、田起こしされることなく、そのまま再び水が張られる。

 様々な地球環境の汚染が問題になる中、農もまた無縁ではありえず、自分の暮しぶりの中から出会ったのが自然農だった。スコップと鎌と鍬だけあれば足りて、耕すこともいらず、自然の営みに寄り添っていけばいいという農法は、作家家業の身には、とても魅力的に思われた。

 しかし、そこからが大変だった。自然農をはじめて、自然とは何かを模索する十年だった。代掻きしないから、田はざる田となって水が抜ける。草も刈るだけで抜かないから、あっという間に草に埋もれてしまう。しかも肥料も、もちろん農薬もやらない。

 だがそこから学んだことは多かった。はじめた当初は、隣の田んぼのおじさんに言われたものだった。「こんな農業やるんだったら、恩給貰ってからやるもんだ」と。だがそのうち「これは最高の農法や。トラクターも肥料も農薬もいらん。丸儲け」と。

 なるほど、丸儲け?!だと気づかされた次第である。稲や野菜は、それ自身の種子の内にいのちを宿し、天地自然に育まれて、ぐいぐいと実ってゆく。人にできることは、ほとんどない。その手助けをすることができるだけである。自然農といえども、作物を作るのだと、傲慢になってしまっていたのでは、と思う。

 天地自然に生かされている、その恵みを頂くというところから、少しずつ、田んぼと向かい合うことができるようになっていったように思う。

 白州の田では今、三反の田んぼと二反の畑を、この地域で活動する地域通貨「湧湧(わくわく)」の農部会の仲間たちと共に取り組んでいる。春、苗代づくりには、湧湧のメンバーが子どもたち共々やってくる。冬を越して水を張った田んぼには、蛙の卵がうようよと盛り上がって浮いている。「これみんな蛙になったら、すごいぞ」と子どもたちが歓声を上げながら、おそるおそる卵に触れてみる。やがて田にはオタマジャクシやヤゴやゲンゴロウが泳ぎ、コナギやアギナシの水草が繁茂しはじめ、初夏にはヤゴが羽化しホタルが飛び交う。これらの生態系の巡りに支えられて、ゆっくりとではあるが、田んぼは、わたしたちの感動と共に、豊かになってきてくれている。

 耕さない田んぼの田植えは、少し勝手が違う。苗を一本一本大地にぐっと潜り込ませながら植えてゆく。そして田植えの後は水草刈りに追われる日々がつづくが、それも出穂と共に、喜びに変わってゆく。ザクザクと稲を刈る。稲穂の嬉しそうな声が聞こえてくる。そうした時をみんなで祝い合えるということは幸せである。

 冬には、湧湧のメンバーで、収穫した米で?を作り、大豆を茹でて、味噌を仕込み、春を待つ――ここには生き方としての農が、あるように思えるのである。

 

A妙なる畑に立ちて――学びとしての農

 十月八日〜十日(2005年)にかけて、奈良県の桜井市で、自然農を実践する人たちの全国交流会があり、十四回目の今年は、自然農の提唱者川口由一さんの田んぼと、その学びの場である赤目自然農塾で開催されるとあって、出かけた。

 川口由一さんは慣行農業に従事していたものの、農薬で体を壊し、その時有吉佐和子さんの『複合汚染』に出会った。そして農薬や化学肥料によらず、生命に危機を招かない農を求めて、自然農を提唱するに至った。

 地球という生命圏の営みに目を向けてみると、そこではあらゆる生命が一体となって、いのちを育んでいる。草木みずからが根を張って耕し、そこに様々なバクテリアや虫が寄生して土壌を豊かにしている。耕すことはそれらの生態系を壊してしまうのではないか?

 大量の肥料を持ち込んで、大地の持つ生命力以上のものを収奪することは、やがて大地を壊してしまうのでは?一つを傷つければ、全体が傷ついてしまう。田の外からは何も持ち込まず、草を刈ってそこに敷いてやる。すると草の亡骸が巡って、肥料となる。そしてこの十全な生態系の中で育ったものは生命力も強く、農薬もいらないと。こうした自然の営みに沿いながら、自然本来の力を引き出そうとする農の実践の中から、耕さず、肥料、農薬を用いず、草や虫を敵とせず、子孫の代まで持続可能な自然農が見出されてきた。

 桜井市巻向。全国から二百五十名(山梨からも十数名)の参加者が田んぼを囲んだ。わたしは、川口さんに出会って十七年目にして、はじめて川口さんの田に立つことができたが、そこには豊かな実りをつけた美しい稲田が広がっていた。二十七年間一度も耕されることのなかった田んぼに手を入れてみる。と、ずずっと手の平がすっぽりと田の中にめり込んでいった。稲藁や麦藁、そして草を刈り込んできた田は、亡骸の層が十センチを超えて、豊かな腐葉土を成していた。

 ともすれば技術論を追い掛けることに汲々としてきたわたしだが、その田を見ながら、自然農とは、作物と大地と人の、本来の美しさを在らしめてゆく、大いなる成長の歩みの中にあるものだと思われてきた。それほどに美しい田んぼであった。田はその人を映し出し、その人の成長を促しさえするようだ。

 翌日は、開所以来十四年目を迎える自然農の学びの場「赤目自然農塾」(名張市)を訪ねた。里山を集落の道に沿って入ってゆくと、長年放置されてきた三町歩弱の棚田が広がっていた。そこを借りて開墾し、橋を架け、作業小屋をつくり、猪の柵を巡らすなどの共同作業をしながら、それぞれが各自の田んぼや畑をもって、自然農を学んでいる。毎年二百五十名前後の人々が全国から通っている。

 川口さんは自らが田に立つ姿を通して教える。交流会で塾生たちは「米づくりとは自分を育てることです」、「生きて行く上での物差しを与えてもらっている」と話していた。

 農は彼らにとって、人生の探求の場になっているのだった。学びとしての農がそこにあった。

 農によって育まれるわたしたちがいる。そこでは時間空間感覚から、経済的感覚、そして大地やいのちへの感性や価値観の変容がもたらされてくる。でなければ、自然の農はできようがないからである。もちろんそこには経済もあるけれども、一方的な利潤追求指向を超えた農がそこにある。いのちの農であり、自分の生き方としての農、大いなる神秘としての活き活きどきどきする農である。


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